生き物たちは、驚くほど人間に似ている。ネズミは水に濡れた仲間を助けるために出かけるし、アリは女王のためには自爆をいとわないし、ゾウは亡くなった家族の死を悼む。あまりよくない面でいえば、バッタは危機的な飢餓状況になると仲間に襲いかかり、動物園の器具を壊したゴリラは怒られるのが嫌で犯人は同居している猫だと示す…といったように、どこか私たちの姿をみているようだ。
ウォール・ストリート・ジャーナル、ガーディアン、サンデータイムズ、各紙で絶賛されているのが『動物のひみつ』(アシュリー・ウォード著、夏目大訳)だ。シドニー大学の「動物行動学」の教授でアフリカから南極まで世界中を旅する著者が、動物たちのさまざまな生態とその背景にある「社会性」に迫りながら、彼らの知られざる行動、自然の偉大な驚異の数々を紹介する。「オキアミからチンパンジーまで動物たちの多彩で不思議な社会から人間社会の本質を照射する。はっとする発見が随所にある」山極壽一氏(霊長類学者・人類学者)、「アリ、ミツバチ、ゴキブリ(!)から鳥、哺乳類まで、生き物の社会性が活き活きと語られてめちゃくちゃ面白い。……が、人間社会も同じだと気づいてちょっと怖くなる」橘玲氏(作家)と絶賛されている。本稿では、その内容の一部を特別に掲載する。
「象の墓場」の真実
象は死者を独特の厳粛な態度で悼む。よく言われる「象の墓場」は単なる伝説にすぎないが、象たちが死んだ象の骨に対して特別な反応を見せるのは確かである。
象に象牙で作った製品を見せるだけでも不安げになり、強い関心を持つ、という報告もある。象牙で作られたアクセサリーを目の前にすると、よく見ようと近づいて来るというのだ。
そして、最も私たちの心を打つのが、家族の死に対して象たちが見せる態度である。
象の葬儀を見ると、象たちも私たちと同じような喪失感を持つらしいと思える。ケニアのセレンゲティのあるレンジャーは、自分が見た象の葬儀の様子を私に話してくれた。その時は酷い日照りが続き、年老いたマトリアーチ(註:象の群れのリーダーである経験豊富な雌)が目に見えて弱っているのがわかったのだという。
象の群れのリーダーが倒れた後に…
周囲の植物は日に日に枯れていき、乾いた大地に強い風が吹きつけることで砂埃が舞った。マトリアーチはやせ衰え、歩くのもおぼつかなくなった。日照りは乾季の間ずっと続いた。最期の数日間もマトリアーチはゆっくりと歩き続け、すぐそばには、四頭の大人の雌象が離れずに付き添っていた。
おそらく彼女の娘たちだろう。そして最期の日、マトリアーチはもはやほとんど動くことすらできなかった。その日の夜、彼女はついに倒れ、そのまま死んでしまった。夜が明けると、家族がマトリアーチの周りに集まって来た。
不気味なほど静かで、重苦しい空気の中で、象たちはマトリアーチの身体に触れた。その様子を広い範囲にいる他の多くの象たちが見守っていた。祈りを捧げるようにして静かに数時間、象たちは立っていたが、やがてマトリアーチの身体に木の枝や葉、土などをのせ始めた。
象たちは、影が次第に長くなり、夜が近づいて来ても、その場を離れようとしなかった。
一度、一頭のジャッカルが興味ありそうに近づいて来たのを追い払った他はほとんど動くこともなかった。夜になると、象たちは動き出した。早く食べ物と水を見つける必要があった。しばらくの間、苦しむマトリアーチを世話することが優先されて、そちらはおろそかになっていたからだ。
何週間かあと、象たちは再び同じ場所に戻って来た。
その時には死んだマトリアーチの身体はもうほとんど残っていなかったが、それでも象たちは静かに、彼女に敬意を表するような態度を取った。
もちろん、種の違う動物の心の中を本当に知ることなどできない。しかし、象たちはたしかに深く悲しんでいるように見える。
見てすぐにそうだと感じるのだ。象という並外れた動物は、どうやら死とは何かを理解しているようなのだ。つまり、その逆の、生きているとはどういうことかも理解しているのだと思われる。
(本原稿は、アシュリー・ウォード著『動物のひみつ』〈夏目大訳〉を抜粋・編集したものです)
40億年を生き延びた生物が教えてくれること――訳者より
ある日突然、この世界から自分以外の人間が消えたら、と想像したことが誰でも一度くらいはあるのではないだろうか。
自分以外に人がいないとまず、電気が来ない、水道もガスも出ない。電車もバスも走らない。しばらくは生きられるかもしれない。食料はスーパーなどに行けば一応、ある。日持ちのするものもなくはないし、水はある。ただ、それも時間の問題だ。そう長くは生きられないに違いない。
人間は支え合って生きている。つまり人間は「社会的な動物」である、ということだ。それは精神的な意味だけでなく、もっと切実な物理的な意味でもそうだ。群れを成し、集団で生きる動物なのである。どれほど孤独を好む人ですらそうだ。
社会的な動物と聞いて思い浮かべるのはどの動物だろうか。よく知られているのはハチやアリだろうか。動物園でサルの群れを見たことがある人もいるだろう。オオカミやライオンも群れを成すし、イワシなどの魚も水族館で大群で泳いでいるのを見ることができる。集団で生きているものを社会的な動物と呼ぶのだとすれば、そうでないものをあげる方が難しいかもしれない。
本書はアシュリー・ウォード著“The Social Lives of Animals”の全訳である。直訳すると「動物の社会生活」となるタイトル通り、オキアミやバッタからチンパンジー、ボノボに至るまで様々な社会的動物の生態を詳しく解説してくれる。
だいたい進化の順(人間から遠い順)に並べているのだと思うが、読んでいて感じるのは、結局、どの動物も共通の祖先から生まれた親戚なのだなということである。もちろん、種ごとに大きな違いはあるのだけれど、本質的な部分に違いはない。人間もそこに含まれる。著者も文中で言っている通り、人間と動物の違いは量的なものでしかなく、質的なものではないということだ。
四十億年の時を超えて生き延び、今、生きているのだから、方向はそれぞれに違えど皆、必要にして十分な進化を遂げてきたのである。その意味で等価だ。どの生物も違う歴史をたどればまったく違ったものになっただろう。いずれも偶然の産物である。
皆、生き延びて子孫を残す、という目的は共通なのに、置かれた環境、経てきた歴史の違いにより私たち人間とどれほど違った、どれほど驚異的な生態の動物が生まれたのか、本書はそれを教えてくれる。
本書は一応、分類すれば「ポピュラー・サイエンス」の本ということになるのだが、読むのに高度な科学知識は必要ない。もちろん著者は専門の研究者として極めて科学的に研究をしているのだが、その成果の一つである本書は、言ってみれば「異文化理解の本」になっているからだ。
相手は人間ではなく、人間とは異種の動物たちだが、それぞれがどのような社会を作りどのように暮らしているかを知る、という意味では、外国の文化、社会を知る、というのと本質的には同じである。自分と異質なものを知りたいという好奇心のある人ならば誰でも楽しめるし、得るものがある。
本書にはもちろん、知らなかったことを知る喜びがあるのだが、単に雑学知識が増えるということではない。最も大事なのはそれまでになかった新たな視点が得られることだろう。視点が増えれば、長期的には人生がまったく違ったものになる可能性がある。本書が読者にとってそういう一冊になれば訳者にとってこれ以上の喜びはない。
■新刊書籍のご案内
☆売れてます! 発売たちまち大重版!!☆
☆Amazon総合1位!(2024/6/14ー6/15)☆
☆Amazon「生命科学」部門1位!(2024/3/27ー7/6)☆
☆日本経済新聞夕刊・書評掲載(2024/4/11)☆
「「渡り鳥がVの字で飛行する際の驚くべき省エネ戦略や、ライオンの子殺しの真相など、次々と「動物のひみつ」が明らかになり、人間や動物の社会性って何なんだろうと考えさせられる。辞書のように分厚い本だが、あれよあれよという間に読み進んでしまい、感動の読後感が残った」(竹内薫氏・サイエンス作家)
☆ダヴィンチWEB・書評掲載(2024/4/10)☆
「突き抜けた動物愛を持つウォード博士の視点は、まさに独特。目次を見ると「シロアリは女王のために自爆する」「ゴリラは自分の罪をネコになすりつける」「クジラは恨みを忘れない」など、どれも興味深いものばかりです。厚さ約4センチで、読み応えたっぷりの一冊」(中村未来氏)
☆世界各国で絶賛続々! あなたの世界観が変わる瞠目の書!!☆
山極壽一(霊長類学者・人類学者)
「オキアミからチンパンジーまで動物たちの多彩で不思議な社会から人間社会の本質を照射する。はっとする発見が随所にある」
橘玲(作家)
「アリ、ミツバチ、ゴキブリ(!)から鳥、哺乳類まで、生き物の社会性が活き活きと語られてめちゃくちゃ面白い。……が、人間社会も同じだと気づいてちょっと怖くなる」
サンデー・タイムズ紙
「非常に印象的な本だ。ウォードは動物を細部までよく見ていて、生き生きと書いている」
ガーディアン紙
「魅力的で並外れた物語。サイエンスの面白さを伝えるとびきりの贈り物だ」
ウォール・ストリートジャーナル紙
「あらゆる場面で読者を驚かせるものが待っている。この本を支えているのは、著者のストーリーテリングの天賦の才能だ」
スティーブ・ブルサット(エディンバラ大学教授・古生物学者、ニューヨークタイムズ・ベストセラー著者)
「著者は動物が一般に考えられているよりもずっと社会的であることを明らかにする。最新の科学に深く切り込みながら、古い固定観念を打ち砕く。著者が描くのは、牙と爪で血の色に染まった自然ではなく、協力と協調にあふれた自然の姿だ」