(2)日本社会はIntegrityを大切にしない

 ここまでお話しした「形式合理性を基盤に設計されていること」に加えて、もうひとつ日本のコンプライアンスの仕組みの最大の問題点があります。

 社会人の皆さんはコンプライアンスがうるさく言われるようになって以来、取引先とのやりとりで形式的にやらなければならないことが増えたことに気づいているでしょう。

 一方でコンプライアンスという仕組みができたもともとの理由は、アメリカで巨大な経済事件が発生した反省からです。本来はコンプライアンスは巨大な間違いを犯さないために導入された仕組みなのです。

 あえて、賛否両論が起きそうな例を挙げさせていただきます。

 社会問題になったダイハツの偽装問題があります。自動車業界では三菱ふそうのトラックの欠陥隠蔽も社会問題になりました。このふたつの隠蔽事件ですが、日本社会では形式合理性の観点から同じような社会問題として扱われています。

 しかし実質合理性の観点で言えば、後者の三菱ふそうは死亡事故が起きたにもかかわらずその欠陥を隠蔽したことから、重大性においてはダイハツの偽装よりも問題ははるかに大きいのです。

 ところが、日本人はこのふたつの問題の違いを重視しない。

 その理由は日本人に「Integrity(誠実さ)」という概念が希薄なためです。これがもうひとつの大問題です。

 以前、私が外資系企業で働いていた当時、人事評価項目の中に「Integrity」という項目がありました。私が「面白い」と思ったのが、当時のコンサル会社の人事考課の責任者が「日本語ではIntegrityっていい訳語がない項目なんだよね」と説明していたことです。

 辞書で読めば「誠実さ」とすぐに訳せるのですが、英語で言うと実は重みがかなり違います。

「胸に手をあててみて、最後の審判の日に神様の前で自分が誠実だったと言えるのか?」ぐらいの重みの話で、そこまでの誠実さについては日本語にはいい訳語がないのです。

 詐欺広告の事件についても「把握されている詐欺事件が何件」というように数字だけで把握すれば胸は痛みません。

 一方で今回の事件の一連の報道で、メディアが接触した被害者がどのような被害を受けているのか、その詳細の話を聞くと本当に胸が痛む被害がおきています。

 Integrityが基準であれば詐欺広告事件は放置できない経営問題なのですが、日本のコンプライアンスではIntegrityを問わないのでメタ社の主張が通用します。

 これは経営者でも政治家でも官僚でも同じですが、日本では重たい責任を持つポジションの人間がこういった胸の痛む事案を取り扱う際に、おそらく人体の自己防衛反応だと思われるのですが、ストンと痛みを遮断する機構が働くようです。

 本当は被害者が出ていて、その痛みが大きく広がっているとしたら?
 犯罪組織が吸い上げた資金で、さらに別の被害が出ているとしたら?

 そのように容易に想像がつく事柄に対してリーダーたちがIntegrityで向き合える社会なのかどうかで、社会の安全や民度というものは大きく変わります。

 ここ十数年の詐欺被害の増加のグラフだけを見ても、日本社会は安全ではなくなっていることは一目瞭然なのですが、日本社会はそういった脅威に対して誠実に向き合う社会ではないようです。