思いを語り合える職場が、「キャリア」の源泉になる
いつしか私は、若い人たちの思いの実現を応援する立場に回るようになった。私のまわりにはいつも若い学生たちがいる。「生きづらさ」や「障がい」、「支援」や「教育」といったキーワードを頼りに集まってくる人たちなので、“いかに生きるか”という問いに真剣に向き合っている学生が多い。
学生たちの中には、企業で働くことを決める人たちもいるし、公務員試験や教員採用試験を受ける人たちもいるし、大学院に進学しようとする人たちもいる。それぞれに悩みながら進路を決めていくのだが、その判断は“いかに生きるか”という問いに向き合うことによって支えられている。
私は学生たちによく進路について尋ねる。すると、例えば、「営業職をターゲットに就活します」といった答えが返ってくる。しかし、私が知りたいのはその先だ。「なぜ、そのような判断をしているのか?」「その判断は、その学生の“いかに生きるか”という問いとどのようにつながっているのか?」ということだ。なぜなら、実際の就活に際して私が学生たちにしてあげられることは、せいぜい、言葉かけくらいだからだ。しかし、“いかに生きるか”という問いをめぐる学生たちの試行錯誤については、日々の実践の中で私自身が直接見守ることができる。私が仕事に向き合う姿を学生に見せることや、私の家族の歴史について語ることも、学生の“いかに生きるか”という問いと関係し得る。そして何より、学生と一緒に活動し、語り合うこと、授業の中で議論や対話を行うことは、学生の、私自身の“いかに生きるか”という問いに関わっていく。
私には、当然のことながら、学生たちへの期待がある。その期待が、当の学生の思いと重なり合うことがなければ、成長という果実をその若者と共に楽しむことはできない。そのためにも、学生たちには、自分の思いに気づき、その思いを言葉にして、きちんと表現してもらいたいと思う。
言葉抜きに分かり合えるような“以心伝心”を美徳とする日本社会では、自分の思いを語るのは少し勇気がいることもある。言葉をきちんと受け取ってもらえるという信頼感がなければ、自分の思いを口にすることに気が引ける。そのような環境は、大人が率先して変えていかなければならない。大人が、若い人たちに、自分の思いを言葉にして表現することを促していかなければならない。
私自身も、先輩たちから自分の思いを口にする機会を与えられていたし、その思いを支えてもらってきた実感がある。25年前、神戸大学に入職したとき、ある先輩の研究者が、「君は何をしたい人なの?」と私に尋ね、私が懸命に語ろうとする言葉に耳を傾けてくださった。思いを語り合える職場が、これまでの私の「キャリア」の源泉だった。神戸大学の教員であること自体が私の「キャリア」ではない。他者と語り合いながら成し遂げてきたことが私の「キャリア」であり、その「キャリア」は、過去を振り返ることを通して立ち現れてくるものなのである。
多数の異質な他者が構成している社会において、「自分の思いを語る」ことは、「他者の思いを受け止める」ことと同時に成り立つ。つまり、「それぞれの思いを語り合い、相互にその思いを尊重し合う」ことが、各人の「キャリア」の創造へとつながるのではないだろうか。今度は私が若い教員たちの先輩にあたる存在になり、仲間が自分たちの思いを語り合い、「いい人生だったな」と回想できる職場環境を維持し、発展させていく責任を感じなければならない番だ。
企業の人事に関わる人や管理職も同様だと思う。働く者一人ひとりの「キャリア」を生む「思いを語り合える」職場づくりのために、知恵を絞っていこうではないか。
挿画/ソノダナオミ