石川啄木は小説を書く根気がなくて
歌人になった!?

今回紹介する文豪(2):石川啄木(1886-1912)
歌人・詩人。本名・一(はじめ)。岩手県生まれ。盛岡中学入学後は詩歌雑誌『明星』を愛読し、創作に励んで学業に失敗。デビュー詩集『あこがれ』で将来を期待されたものの、生活苦に陥り小説家を志す。北海道や東京に渡るが、そのいずれでも生活が破綻。1909年、文芸雑誌『スバル』創刊。歌集に『一握の砂』『悲しき玩具』。
転職14回、引っ越し46回!推理作家・江戸川乱歩の「怪人二十面相もビックリ」な社会不適合ぶりこじらせ文学史 ~文豪たちのコンプレックス~』(ABCアーク) 著:堀江宏樹 価格:税込1650円

 もともと石川啄木は小説家志望だった。現在の啄木の肩書が「歌人」になっているのは、彼に小説を量産していくだけの気力・体力がなかったことを意味している。

 明治41年(1908)、啄木は遊女から借りた金を含む元手で、上京の夢を叶える。しかし、与謝野鉄幹・晶子夫妻のもとに今後の相談に行くと、「出版不況で文芸書がまったく売れなくなり、詩歌雑誌『明星』の部数も激減中で、晶子が仕事を選ばずにしても、毎月90円(現代日本円で90万円ほど)を稼ぐのがやっと。額としては大きく思えるかもしれないが、『明星』刊行継続に私費を投入せねばならず、子どもがたくさんいるので、結果的には生活苦」という世知辛い現実を告げられてしまった。

 就職などしたくない啄木は現実をねじまげ、<一生懸命書いて居れば、月に三、四十円の収入は必ずあるから、唯(ただ)先(ま)ず書くべし(与謝野氏も八分通り此の説に候)>、<創作をやると共に準文学をやる覚悟さへあれば、二十円やそこいらの職につくよりもよい>などと、生活の世話をしてくれている遠い親戚の宮崎大四郎(啄木の妻・節子の妹の夫)に手紙を書いた(※「啄木全集 第7巻」)。

 要するに、与謝野夫妻の親身のアドバイスなど啄木には届いてさえおらず、ただ彼らの名前と相談しに行った事実だけを利用して「僕は就職したくないから、売れるようになるまでは金の面倒をみてね!」と言っているわけだが、啄木は「文学」どころか、「準文学」――つまりエンタメ小説さえ、まともに書くことはなかった。

 そんな啄木が継続してカタチにして残せたのが、一瞬のひらめきだけで完成できる短歌だったのだ。<はたらけど はたらけど猶(なお) わが生活(くらし) 楽にならざり ぢっと手を見る>という歌は有名だが、勤労実態がほとんどないので、内容はフィクションと言える。しぶしぶ就職した東京朝日新聞での校正職もずる休みするばかりであった。

 石川啄木は、自分の結婚式に行くのが面倒くさくなってすっぽかす、遊女から借金したカネで女を買いに行くなど、本当に地獄のような生活を送っていた。こっそり書いていた『ローマ字日記』にはどこから資金を捻出したのか、遊郭に通っては相手してくれた少女のような年代の遊女に冷たい眼差しを向け、自分は正々堂々と休職したいので<神よ(※中略)どうか、からだをどこか少し壊してくれ(※中略)病気さしてくれ!>と念じる、プロのダメ人間としての日々が綴られている。

 人の情けにすがるのが上手というか、短歌を詠む以外はそればかりの短い生涯だったが、自分の葬式すら、浅草の等光寺が実家だった歌人・国文学者の土岐善麿(とき・ぜんまろ)のお慈悲で、費用を負担して出してもらっている。

(文豪こぼれ話)借金の言い訳を1メートルの手紙に綴る

 啄木には詳細な借金ノートを書いていた時期がある。啄木が18歳だった明治37年(1904)から5年間の記録によると、63人から総額1372円50銭を借りたという。現在の貨幣価値にして借金総額1372万円あまり。1年間に平均300万円を借りていたことになり、借金だけで生計を営めていた疑惑が拭えない。

 明治39年(1906)には、米屋をしている太田駒吉という人物に、借金が返せない言い訳を1メートル以上の長さにわたって書き連ねているだけの手紙を送りつけた。ただし、これは現在オークションにかければ、かなりの高値がつくかもしれない。