ピアノやバイオリンの教育がそうであるように、才能のない者をさらなる教育から容赦なく排除すること(それは、その教師やまわりの第三者にとってのみならず、その生徒にとってもためになる処置である)が善い教師たる者の特徴の1つであるような、そうした種類の教育も存在する。そうした教育においては、才能のない者を見分ける力や、彼らをその教育の課程から排除する力は、教師が備えるべき徳の一つなのである。

 マッキンタイアを読みながら、昔見た映画『フェーム』を思い出した。『フェーム』はニューヨークの演劇学校をモデルに、演劇と音楽の専門校に通う学生たちの青春を描いた映画である。そのなかでダンスをあきらめて学校を去るように、教師が一人の学生に痛烈に言い渡す場面がある。このダンス教室にあなたの場所はない、あなたの人生を台無しにするわけにはいかないから、率直に言わなければならない、と教師は言い放つ。

 泣きながら教室を去る学生を見送って、それまでの毅然として冷徹だった教師が、苦渋に満ちた顔でため息をつく。その表情が印象的だった。専門教育に携わる教員ならば、多かれ少なかれ経験しなければならない、苦い思いだ。ハーストハウスもマッキンタイアも、おそらく何度も経験したにちがいない。

問題となっている真実の本性や重要性によっては、感情を傷つけるかどうかということがそもそも問題とならない場合、つまり、例えそれをはっきり言ったとしても不親切にも非情にもならない場合があります。(あと6カ月の余命しかないというショッキングな真実を医者が患者に告げたからといって、その医者を不親切で非情だとは誰も思わないでしょう。もちろん、その告知が不親切で非情な仕方でなされるということはありうるとしても。)

「真実を医者が患者に告げたからといって、その医者を不親切で非情だとは誰も思わない」かどうか、少なくとも日本では疑問である。それにもかかわらず、ハーストハウスの主張は正しいのではないか。

悔いなき人生を過ごさせるために
真実を本人に隠してはいけない

 真実の伝達が友人をひどく傷つけるならば、私たちは言うべき時と所を考えると述べたが、それは真実を告げないことを意味はしない。いつ言うべきか、おそらく友人が耳を傾ける余裕があるとき、必要なときを考える。一方、6カ月の余命しかない患者にとって、告げるときは今しかない。患者が人生の終わりをどのように過ごすか、患者自身が考える最も重要な情報である。本人の人生の決断に必要な真実を本人に隠してはならない。

 しかし日本の社会ではそう簡単に決められない、と現場の医師から応えが返ってくるかもしれない。告知に際しては、多くの場合まず家族に相談して、その上で本人に告げている。決定は本人ではなく、家族への相談と共に始まる。こうした社会では欧米と精神的風土が異なるから、同一に論じられない、そう言われるだろう。