患者がストレスを抱えているのも、鬱状態に陥りがちなのも、医療者はよく知っているだけに告知するかどうか悩む。医療者の立場からすれば治療を続けるために正確に症状を告知したいのであって、治療上、真実を隠しても何も利点はない。それでも、真実の告知が患者を追い詰めるとすれば躊躇するのは当然だろう。

 以前は、癌の病名をとにかく避けたい風潮があった。1980年代、筆者の叔父は癌で亡くなったが、癌と似た症状を呈する再生不良性貧血と告げられていた。再生不良性貧血は癌と同じように深刻で厄介であり、決して予断を許さない難病だが、癌と聞いたときに与える心理的な衝撃を避けるための窮余の策だった。

 事実を隠す、あるいは偽るのは、偽りの形をとった思いやりだろうか。あるいは、思いやりと間違えた偽りだろうか。どちらなのか。

 真実が友人をひどく傷つけるならば、私たちは真実を告げる時と所を考える。同じように、患者を落ち込ませ、動揺させ、ときに自殺にまで追い込んでしまう場合、よほど頑固な真実一路の普遍主義の信奉者でもない限り、告知を控えるべきではないかと悩むだろう。それでは、真実を告げる原則の例外として、癌告知をみなしていいだろうか。

例え相手を傷つけたとしても
告知は人生を台無しにしない

 現代の徳倫理学の代表的論者であるハーストハウスの答えは、否である。真実が人を傷つけるのであれば、真実を語らないよう求める場合がある。しかし、当人への思いやりは、真実を述べない理由に常になるわけではない。人生の岐路にあたるとき、重要な決断を下さなければならないとき、それが如何に本人を傷つける事実だとしても、正確に伝えるべきである。

 研究者になるため大学院進学を目指す学生を考えてみよう。もし学生に充分な能力がないならば、教師はどうすべきか。たとえ学生が傷つくとしても「あなたは研究者に向いていない」と指摘しなければならない。それが教員としての義務である、ハーストハウスはそう語る。

 もう一人挙げておこう。20世紀のスコットランドの哲学者マッキンタイアである。彼は徳と教育一般の関係について、教育の基本は個々人の自立を促す思慮の育成にあると指摘している。一方で、職業に直結するタイプの教育においては、見込みのない、あるいは該当分野に不向きな学生に真実を告げる必要性について、ハーストハウスと同様の見解を、こう披露する。