社会学の領域では、こうした現象は「個人化」と呼ばれます。家族や地域、職場などの束縛が弱まるなかで「標準的な生き方」のモデルに従うことが難しくなり、結果として一人ひとりが自分の人生のありようを決め、その責任も負わざるをえなくなるということです。生き方の「正解」がみえないのであれば、他人がどう生きるべきかについても口出しすべきではないとなるのは当然の流れでしょう。

人間関係を円滑にするため
「人それぞれ」で受け流す

 社会学者の石田光規は、他人の生き方に踏み込もうとしないそうした態度を「人それぞれ」というフレーズで要約しています。他人と意見が違った場合、自分の意見を曲げてでも争いを避ける人が増えているという意識調査の結果を踏まえて、異論を「人それぞれ」で受け流すことが人間関係を円滑にするための手段として活用されているというのです。

 自分と他人とが違う場合、その違いに触れないようにするのは、まさしく寛容と呼んでよい態度でしょう。結婚前にセックスしようとしまいと、結婚しようとしまいと、子どもをもとうともつまいと、それは「人それぞれ」で、他人が口をはさむような問題ではないのですから。

『ネットはなぜいつも揉めているのか』書影『ネットはなぜいつも揉めているのか』(津田正太郎、筑摩書房)

 ただし、ここで注意する必要があるのは、「人それぞれ」は他人に対する無関心とイコールではないということです。「正解」があらかじめ決まっていない分だけ、他人がどのような選択をしているかについての関心が高まることもありうるからです。

 ともあれ、社会全体としては規範の水準が大幅に上昇し、しかもこのように寛容さが増大していることを踏まえると、少なくとも他人が法律の枠内で行動している限り、その行動への不満が減少していってもおかしくはないはずです。なのに、ツイッター上では、迷惑行為を批判するツイートが頻繁にバズっているのです。

 その理由の一つとして、とりわけツイッターには人びとの不満が表れやすいということが挙げられます。「人それぞれ」で受け流したとしても、他人のふるまいにイラっとすることはある。それを吐き出すための場として機能しているということです。