先生が出した切り札
「ユー・モア」とは?
井上さんは、じっと先生の目を見つめている。さっきまでは、視線が合うとすぐに照れくさそうに下へ逸らしていたのだが、明らかに様子が違う。彼の表情が硬くなる。
「実は、私、先生のご著書を読んだんですよ。ネットで知って」
先生は、世間話でもするようなのんきな調子で言った。
「ああ、そうだったの。本、どうでした?」
「素直には読めませんでしたね」
「どうして?」
穏やかな声で、先生は尋ねた。
「こう思ったからですよ。『この人はがんじゃない』ってね。人生が終わるカウントダウンの始まった私と、まだ終わりを気にしないで生きていける先生とでは、住んでいる世界が違う。
大きな川のあちら側にいる人と、こちら側にいる人の会話のようなもんです。もう、死のほうへと向かって歩いている私に、川の向こうから話しかけられても、私には先生が何を言っているんだか分かりゃしない。なんだか空々しく思えてしまう。遠くから、寂しい風の音みたいに聞こえてくるだけなんですよ」
井上さんにとって、先生が何かを言おうが言うまいがどうでもいいのか、そのまま勝手に話を続けていく。
「家で妻が私に聞くんですよ、『痛いの?』って。
『いいや。でも、何で?』
本当に痛くはないのでこう答えた。すると、妻は言うんです。
『だって、つらそうだから』
その通り。私はつらかったんです。目の前にいるはずの妻が、ボクの手の届かない世界にいると感じることが、つらくてたまらなかった。
でも、そんなことは言えやしない。
『キミにはボクの気持ちは分からない』
そう言うのと同じだ。ただ、妻を傷つけるだけの言葉になってしまう……」
ここで、言葉が再び途切れる。
井上さんは、自分が1人で死んでいくその孤独に、苦しんでいたのだった。そうなっても、まだ、奥さんのことを当たり前のように気遣っている。この人は、やはり、温厚で人を気遣う好人物だった。
その人が、お人好しの表情が刻み込まれた顔を不自然に歪め、慣れない嘲笑を浮かべて、今、先生を睨みつけている。
だが、先生は真っ直ぐに井上さんを見続けている。
井上さんがふいに顔を上げた。