「人間は死ぬとき、皆、1人なんですよね」
温厚そうだった顔がすっかり消え、苦しそうに表情が歪められている。その目を真っ直ぐに見ながら、先生が笑顔で言った。
「井上さん、ユー・モアだよ」
怪訝そうな目で、先生を見る。
「私にジョークでも言えと?」
「違う。僕の言っているのはユーモアじゃない。“あなた”の意味の“you”と、“もっと”の意味の“more”のこと。“あなたがもっと大切”ってことだよ」
「自分を大切にしろと言いたいんですか」
先生はニコニコしながら首を振る。
「そうじゃない。“you”は英語の2人称でしょ。自分じゃない、目の前にいる“あなた”のこと。つまり、“目の前の人が自分より大事”、そういう意味」
井上さんは変な顔をする。
「それって、要するに、ダジャレ?」
「うん」
先生はニコッと笑った。
「バカバカしい」
そう言って、井上さんは立ち上がった。そして、個人面談は終わってしまった。
「パパ、笑って。お願いだから!」
娘の言葉で我に返ることができた
1カ月ほど経って、再び井上さんが、がん哲学外来にやって来た。顔がすっかり変わっていて、落ち着いた穏やかな表情になっている。面談に限らずいつもそうであるように、その日も笑顔で迎えた先生と視線が合うと、井上さんがちょっと照れくさそうに下へとそれを外す。
まず、紅茶を一口すすった後、井上さんが言った。
「ユー・モア。本当にその通りでした」
先生の目が笑った。
「家で、何かいいことがあった?」
「はい。実は……」
井上さんは、あの日、帰りの道すがら考え続けたという。
「目の前の人をもっと大切に、だって?自分はいつも家族のことを大切に思ってきた。がんになってからも、妻や娘を傷つけるようなことを一度だって言ったことはない。自分は家族を蔑ろになどしていない。
人の家のことも知らないくせに、お節介なことを言わないでくれ。そんな風に思いながら、家に着いたんです……。
家の中に入ると、妙な感じがしました。変に静かだったんです。誰もいないのかと思って、リビングのドアを開けると、妻が1人でソファに座っていました。テレビがついていない。ああ、娘がリビングにいないから静かなんだと気づきました。