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※本稿は『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。

屈辱的な敗北を喫した織田信長が、背水の陣で生んだ「目からウロコのイノベーション」とは?Photo: Adobe Stock

織田信長が激しく対立

織田信長(1534~82年)は、尾張(愛知西部)に生まれた戦国大名。若いころは奇抜なスタイルにより「うつけ(ばか)者」と周囲から揶揄された。しかし、合理的な考え方の持ち主で、鉄砲など最新兵器を導入したり実力重視で家臣を抜てきしたりと、従来の常識にとらわれない当時としては大胆なとり組みをした。その結果、尾張の小大名から尾張を統一した後、隣国の大大名・今川義元(1519~60年)の侵攻に対して桶狭間の戦い(1560年)で討ち果たす。さらに美濃(岐阜)を支配していた斎藤氏を滅亡させて領土を拡大した後、室町幕府の将軍・足利義昭(1537~97年)を奉じて京都に上る。その後、対立した義昭を追放したうえで勢力を拡大していき、東国の強豪であった武田氏を滅亡させ、西国の雄・毛利氏も攻めて天下統一に王手をかけるが、本能寺の変(1582年)で重臣・明智光秀(1528~82年)のクーデターにあい自害する。

織田信長は、多くの一揆(反乱)を起こす一向宗(浄土真宗)と激しく対立していました。その一向宗を屈服させるため、信長は現在の大阪城にあった一向宗の総本山・大坂本願寺を攻めたのです。

その際、大坂本願寺を囲い込み、食料の補給線を断つ「兵糧攻め」をしたのですが、そこに強敵が現れました。それは中国地方の毛利家に属して、瀬戸内海で活動していた海賊「村上水軍」です。

大坂本願寺とつながっていた毛利家は、村上水軍を大坂本願寺に向かわせ、食料を届けようとしたのです。

敵対勢力にボロ負け

当然、信長は村上水軍を阻止しようと、織田水軍を大坂湾の入り口となる木津川口に派遣しました。そして、織田水軍と村上水軍による「第一次木津川口の戦い」(1576年)が始まったのです。

村上水軍は、土器に火薬を詰めて点火して爆発させる「焙烙火矢(ほうろくびや)」という武器を織田水軍に投げ込みました。当時は木造船でしたから、焙烙火矢が直撃した織田水軍の船は燃えてしまい、多くの武将と兵士が亡くなりました。

勝利した村上水軍は、大坂本願寺に食料を届け、また瀬戸内海に戻ったのです。

敗北からの逆襲

このままでは、大坂本願寺に食料が運び続けられ、織田軍は劣勢に立たされてしまいます。そこで信長は、水軍を担当していた志摩(三重)の豪族・九鬼家に命じて、新しい大型船をつくらせます。

この大型船は村上水軍の焙烙火矢をはね返せるように、当時は想像もつかなかった鉄板で囲んだ船であり、しかも大砲を備えていたのです。

新しい大型船を建造した信長は、再び村上水軍との戦い「第二次木津川口の戦い」(1578年)に挑みます。すると、村上水軍の焙烙火矢は、大型船の鉄板にはね返されて役に立たず、逆に織田水軍の鉄砲や大砲が撃ち込まれ、村上水軍は敗北します。

その後、毛利家から大坂本願寺に食料を送ることが難しくなり、苦しい状況になった一向宗は織田軍に降伏。大坂本願寺を明け渡します(1580年)。そして大坂本願寺は壊され、豊臣秀吉の時代になってから同地に大坂城が築かれ、新しい時代を迎えたのです。