「仕事が遅い部下がいてイライラする」「不本意な異動を命じられた」「かつての部下が上司になってしまった」――経営者、管理職、チームリーダー、アルバイトのバイトリーダーまで、組織を動かす立場の人間は、悩みが尽きない……。そんなときこそ頭がいい人は、「歴史」に解決策を求める。【人】【モノ】【お金】【情報】【目標】【健康】とテーマ別で、歴史上の人物の言葉をベースに、わかりやすく現代ビジネスの諸問題を解決する話題の書『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、伊達政宗、島津斉彬など、歴史上の人物26人の「成功と失敗の本質」を説く。「基本ストイックだが、酒だけはやめられなかった……」(上杉謙信)といったリアルな人間性にも迫りつつ、マネジメントに絶対活きる「歴史の教訓」を学ぶ。
※本稿は『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。
織田信長が激しく対立
織田信長は、多くの一揆(反乱)を起こす一向宗(浄土真宗)と激しく対立していました。その一向宗を屈服させるため、信長は現在の大阪城にあった一向宗の総本山・大坂本願寺を攻めたのです。
その際、大坂本願寺を囲い込み、食料の補給線を断つ「兵糧攻め」をしたのですが、そこに強敵が現れました。それは中国地方の毛利家に属して、瀬戸内海で活動していた海賊「村上水軍」です。
大坂本願寺とつながっていた毛利家は、村上水軍を大坂本願寺に向かわせ、食料を届けようとしたのです。
敵対勢力にボロ負け
当然、信長は村上水軍を阻止しようと、織田水軍を大坂湾の入り口となる木津川口に派遣しました。そして、織田水軍と村上水軍による「第一次木津川口の戦い」(1576年)が始まったのです。
村上水軍は、土器に火薬を詰めて点火して爆発させる「焙烙火矢(ほうろくびや)」という武器を織田水軍に投げ込みました。当時は木造船でしたから、焙烙火矢が直撃した織田水軍の船は燃えてしまい、多くの武将と兵士が亡くなりました。
勝利した村上水軍は、大坂本願寺に食料を届け、また瀬戸内海に戻ったのです。
敗北からの逆襲
このままでは、大坂本願寺に食料が運び続けられ、織田軍は劣勢に立たされてしまいます。そこで信長は、水軍を担当していた志摩(三重)の豪族・九鬼家に命じて、新しい大型船をつくらせます。
この大型船は村上水軍の焙烙火矢をはね返せるように、当時は想像もつかなかった鉄板で囲んだ船であり、しかも大砲を備えていたのです。
新しい大型船を建造した信長は、再び村上水軍との戦い「第二次木津川口の戦い」(1578年)に挑みます。すると、村上水軍の焙烙火矢は、大型船の鉄板にはね返されて役に立たず、逆に織田水軍の鉄砲や大砲が撃ち込まれ、村上水軍は敗北します。
その後、毛利家から大坂本願寺に食料を送ることが難しくなり、苦しい状況になった一向宗は織田軍に降伏。大坂本願寺を明け渡します(1580年)。そして大坂本願寺は壊され、豊臣秀吉の時代になってから同地に大坂城が築かれ、新しい時代を迎えたのです。