1947年に臣籍降下した11宮家は
すべて伏見宮邦家親王の男系子孫

 このうち桂宮家と有栖川宮家は断絶して、新たに親王が継いで、伏見宮家とともに皇統断絶に備えた控えとして位置付けられた。現実には有栖川宮家からつなぎのような形だが、後西天皇が出ている。

 また、伏見宮家では貞清親王が宇喜多秀家の娘を妃とし、娘は4代将軍家綱と紀伊藩主光貞の正室となり、8代将軍吉宗の正室も出し、幕府との関係を強化した。そのおかげで、いったん桃園天皇の親王が伏見宮を継いだが、、政治力で本来の伏見宮の血統に取り戻した。

 新井白石は、三親王家でしかもしばしば一つは空席では常に適切な皇位継承者が準備できるとは限らないと心配して、徳川御三家のような安定した世襲宮家を増やした方がいいという方針のもと、東山天皇の子の直仁親王に閑院宮家を新設させた。

 光格天皇即位の際、伏見宮貞敬親王も候補の一人だったが、父の邦頼親王が後桃園天皇を呪訴したりしたとのうわさもあったりして途中で消えたようだ。しかし、逆にいえば呪訴しているといううわさが朝廷で広まっていたということは、公家社会の常識として有力候補の一人だったことを裏付けている。

 また、条約勅許問題で幕府と対立した孝明天皇は、貞教親王(伏見宮)・幟仁親王・熾仁親王(有栖川宮)の誰かへの譲位の構えを見せたが、これも伏見宮が男系で縁遠いことと関係なく皇位継承権者だと見なされていた証左である。もちろん、のちの明治天皇に取り戻すつもりだっただろうが、成人しなかったら伏見宮家に皇統は移ってもいいと孝明天皇は考えていたのである。

 しばしば、伏見宮家は、南北朝時代に現皇室と分かれて没交渉などといわれるが、幕末に至るまでずっと皇位継承候補だったわけなのだから、有栖川宮家や閑院宮家と性格的に異なるわけではない。

 そして、明治になると仏門に入っていた伏見宮邦家親王の子どもたちが一斉に還俗した。しかも、大正になって有栖川宮家は断絶し、大正天皇の子である高松宮殿下が祭祀を継承し、閑院宮家も伏見宮家から継承者を出した。

 そのような経緯で、1947年に臣籍降下した11宮家はすべて伏見宮邦家親王の男系子孫なのである。