鎌倉時代から始まり
江戸時代に確立した世襲宮家

 そういう視点も踏まえ、旧宮家の歴史や現状については新刊『系図でたどる日本の皇族』(宝島社)で詳しく書いた。以下、そのポイントについて解説したい。

 世襲宮家は、鎌倉時代から始まり、江戸時代に確立した。古代において皇族の範囲についての共通認識があったかどうかは分からないが、律令制では孫ないし曽孫までが王として扱われ、それ以下は臣籍降下(皇族がその身分を離れ、姓を与えられて臣下の籍に降りること)した。

 しかし、嵯峨天皇の子が多すぎ、天皇の子でも臣籍降下させ源氏や平氏としたが、臣下になった後復帰した例もある。とはいえ、多くは出家させられた。

 ところが、鎌倉時代に南北朝のもとになる大覚寺統と持明院統の両統迭立となり、さらに、それぞれの統で次男以下がごねたので、世襲宮家を創設して慰撫した。そして、北朝では後光厳天皇系と崇光天皇系が争い、後者を世襲で親王とするという条件で生まれたのが、現代の旧宮家の先祖である伏見宮家だ。

崇光天皇以降の皇室系図『系図でたどる日本の皇族』(宝島社)より 拡大画像表示
図表:旧宮家と明治天皇・昭和天皇との血縁関係『系図でたどる日本の皇族』(宝島社)より 拡大画像表示

 後光厳系が断絶したので、第102代の後花園天皇はここから出て、伏見宮家はその弟の貞常親王が継承して、そのまま現代に至るまで男系男子の血統が継続している。

 戦国時代には、経済的余裕がなく、男子のうち皇嗣だけを結婚させて、残りはしばらく独身の部屋住みにしておいて、不要となれば出家させていた。そして、いざとなれば伏見宮もいたというわけである。

 ところが、後陽成天皇の弟の八条宮智仁親王(桂離宮の創始者)は、豊臣家の継承者に予定されていたが、鶴松が生まれたため、秀吉は八条宮家(のちに桂宮家)を創設した。

 また、南北朝時代からは天皇の正妻的な妃がいなくなっていたが、後陽成天皇は秀吉の猶子として入内した近衛前子を女御とし、12人もの子をつくらせた。皇位を継承した後水尾天皇以外もそれなりに扱おうということで、近衛家と一条家に養子に出したほか、好仁親王に高松宮家(のちの有栖川宮家)を創設させた。