なぜ人間にとって
「3」は特別なのか

 3度、と言われると、そうだなあと納得してしまうのは何故なんでしょうね。

 3は実に力を持った数字だと思いませんか。例えばドラマの撮影シーンで「スタート」の合図を出す場合、5秒前、4、ここまで声に出して言い、3からは指だけで3、2、1と役者さんにスタートを告げる。もしくは3まで声に出して2、1と指で合図を送る。ラジオの本番でもディレクターが、「じゃあ、本番いきまーす。3」まで言って、指で2、1、どうぞと手を差し出したりします。

 3には、さあいよいよ、と始まりを感じさせると同時に、スタートまでまだある、という一瞬のゆとりがあり、緊張とゆとりの微妙な狭間にあって精神的バランスをとっている数字なのでは、とも思います。スリー、ツー、ワン、とカウントする場合、フォーからカウントすると、そのバランスが崩れるのがおわかりいただけるのではないでしょうか。

 三角形になって初めて空間のある形が作られ、ゆとりが生まれる。この一番小さなゆとり、それ以上だと大きすぎるぎりぎりのゆとりを3という数字は持っているわけです。メダルは金、銀だけでなく、銅まである、というゆとり。三種の神器、日本三景、世界三大○○、2ではなく、3になったときの安定感、収まりのよさは、このゆとりと大いに関係しているように思えます。

 3という数字を出されると、きっと私たちは弱いんだと思うんですね。「3か、3ならしょうがないな」と暗黙の了解ができてしまう。小津監督が「夕食をふたりっきりで3度してーー」と言うと、なるほど、と納得してしまうのも、あれこれ考える前に3にやられてしまっているんだと僕は思います。