オリンピック特需後の経営危機
歴史に消えた壮大な構想

 日本高架鉄道も新橋~羽田空港間に続く路線を構想する。1962年3月に蒲田駅前商店振興会の誘致に応えて蒲田~羽田空港間、9月に羽田空港~横浜間の免許を申請し、羽田空港を軸に新橋、蒲田、横浜の三方面へ分岐する路線網を構想した。京急電鉄は現在、品川(新橋)と横浜から蒲田経由で羽田空港への直通運転を行っているが、同様の狙いだった。

運輸省への申請書類に記された蒲田・横浜への路線図(国立公文書館)運輸省への申請書類に記された蒲田・横浜への路線図(国立公文書館)

 とはいえ、まずは免許から東京オリンピック開会まで3年弱、実際の工期は1年数カ月というタイトなスケジュールで新橋~羽田空港を開業させなくてはならない。芝浦運河沿線住民の反対や、新橋に用地を確保できなかったため始発駅を浜松町に変更するなどのトラブルもあったが、工事を急ピッチで進め、1964年9月17日に開業した。

 しかし、軟弱地盤の東京湾で、しかも、突貫工事で進めたことで建設費は想定を25%も上回り、採算をとるためには250円という高額な運賃を設定せざるを得なかった。1964年の国鉄の初乗り運賃は10円、新幹線「こだま」の東京~新大阪間が2280円(2等)だったから、現在の価値に換算すると1600円くらいになる。

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 開業当初こそオリンピック特需と見物客で1日5万人以上の乗客が詰めかけたが、年末には1日2000人を割る日も出る有り様で、1965年の輸送人員は想定の25%にとどまった。

 早くも経営危機に陥った東京モノレールは、1967年に日立運輸、西部日立運輸と合併し、日立のグループ企業「日立運輸東京モノレール」として再発足した。「日立アルヴェーグ式モノレール」を売り込みたい日立は、東京モノレールと一蓮托生であった。

 こうして東京モノレールは浜松町~羽田空港間に封じ込まれ、壮大な延伸構想は歴史の中に消え去った。それでも、モノレールが「未来の象徴」だった時代に、モノレールに魅せられた男たちが本気で見た夢は、今も色あせないように思えるのだ。