新橋から熱海までを
モノレールで結ぶ壮大な構想

 話は1960年に戻る。犬丸・鮎川らが新会社の設立準備を進める中で、新橋~羽田空港間は1959年創立の大和観光という会社がすでに、免許を申請中だったことが判明した。同社社長の鈴木彌一郎は1931年に國學院大學を卒業後、日本パーカライジング、日本硝子綿工業などを経て、終戦後は昭和電工(現・レゾナック)の仲介業者・丸政商事を経営した、鉄道とは縁遠い人物だった。

 そんな鈴木に運命的なひらめきが下りてきた。友人の渡米を見送るためにタクシーで羽田空港に向かった際に道路渋滞で間に合わなかった経験から、空港アクセスの改善が必要だと痛感した。さらに1957年、子どもと開業したばかりの上野動物園のモノレール「上野懸垂線」に乗ったことを思い出し、その手段をモノレールと決めた。

 鈴木は新橋から羽田空港まで懸垂式モノレールで海面上をほぼ直線で結び、途中に平和島ヘルスセンターなど4カ所に停車場を設け、急行と各駅停車を運行する計画を立てた。さらに、将来的には、羽田空港から横浜、新橋から京葉工業地帯まで延伸。横浜から横須賀、江の島、小田原を経て箱根、熱海に延伸するという壮大な構想を抱いていた。

 当時の経済誌によれば、鈴木は鮎川のブレーンだった佐々木芳郎と面識があり、有力者・大資本の計画に「先願権」を売り込んだという。こうして両社の合同が決まり、犬丸を社長に据えて新体制を構築。1960年6月に「日本高架電鉄」に改称した。現在の社名、東京モノレールは開業直前の1964年5月に再度改称したものだ。