犬丸・鮎川グループとの合同後
わずかの間で消えた鈴木色

 日本高架電鉄は1961年1月に、鈴木が行った懸垂式の申請を取り下げ、あらためて跨座式(アルヴェーグ式)で新橋~羽田空港間を出願した。同年12月に免許されるが、鈴木はすでに会社を去っていた。鈴木と犬丸・鮎川グループが合同した1960年9月、鈴木は社長から副社長に転じるが、同年末の役員一覧には名前がない。

日本高架電鉄が運輸省に提出した予定路線図(国立公文書館)日本高架電鉄が運輸省に提出した予定路線図(国立公文書館)

 東京モノレールが1985年に発行した社史『20年のあゆみ』には「日本高架電鉄初期の役員」が記されているが、1960年12月の役員一覧から記述が始まるため、鈴木の存在は抹消されている。大和観光の共同代表で、日本高架電鉄の取締役に就任した百武忠次も、1961年2月に退任しており、合同からわずかの間に鈴木色は消えてしまった。

 日本高架電鉄を去った鈴木は1961年3月、自身を発起人代表とする「日本モノレール電鉄」を企画し、大手町から飯田橋、市ケ谷、淀橋を経由し、久我山、三鷹に至る跨座式モノレールの免許を申請している。

 これは同年8月に取り下げられたが、同年4月に設立された懸垂式モノレールの建設を目指す新会社・日本エアウェイ開発に路線構想を持ち込んだとの証言がある。彼もまたモノレールに魅入られたひとりであった。

 ただ、鈴木の影響が完全になくなったわけではないようだ。犬丸は1964年に記した自伝『ホテルと共に七十年』で、「日本高架電鉄が浜松町、羽田間のモノレール建設を企てるや、これを横浜、大船などを経由して熱海まで延長したいとの構想がうまれ、1962年5月1日、熱海モノレール株式会社が創立された」と述べている。

 熱海モノレールの同社の筆頭株主は日本高架電鉄、会長には犬丸が就任した。熱海駅前から海面上を走り、熱海ロープウェイ乗り場前まで約2キロを結ぶアルヴェーグ式モノレールを1962年5月に出願し、1963年12月に免許されるが、地元の反対運動などがあり、実現しなかった。