笠置シヅ子の高石かつ枝もちょっと見てみたかったという気もするが、二度とこういう経験はすまい、と思ったというのは、断固として自分が何を演じるべきか、笠置はこの時期すでにわかっていたのだ。

 1939年春、笠置の東宝への移籍問題が起きる。当時、前年の旗揚げ公演「スヰング・アルバム」に出演して以来、“スヰングの女王”絶賛されていた笠置のこの移籍問題は、新聞の芸能欄の話題に上り、笠置の写真入りで報じられている。

 かぎつけた新聞記者に質問された笠置は多くを語らず、「私の口から何も申し上げることが出来ません。私は1人ぽっちで、その上田舎者ですから、皆さんにご迷惑をかけるようなことはしたくないのですけれど…と、憂わしげに語っていた」(『朝日新聞』1939年3月25日)と記事にはある。

 笠置を東宝に誘ったのは、すでに前年6月にSGDを去っていたジャズ・ピアニストで華族(注・華族制度は1869年から1947年まで続く)の益田貞信(父の益田太郎が太郎冠者と名乗ったことで、別名・益田次郎冠者ともいわれた)だった。プロデューサーとしての益田の洗練されたモダニズムが、やがて大衆路線に合わせていく松竹との方針と反りが合わなくなるのは時間の問題だった。その才能を東宝系の劇場などで発揮することになった益田は、SGD時代に笠置の才能を見抜いていたと思われる。