服部良一(1907-93)が笠置シヅ子(1914-85)に初めて会ったのは1938(昭和13)年だったらしい。前年に淡谷のり子の歌唱で「別れのブルース」と「私のトランペット」を発売し、38年には「雨のブルース」と「思ひ出のブルース」を発売し、和製ブルースが大流行した年だった。笠置シヅ子は当時、大阪松竹少女歌劇団(OSSK)のスターだった。

松竹歌劇部の有為転変

 芸名の「笠置シヅ子」の表記は、じつは1957(昭和32)年に歌手から女優へ転身する際に「シヅ子」としたもので、1927年に大阪の松竹楽劇部生徒養成所に入学し、同年にデビューしたときは「三笠静子」、35年からは「笠置シズ子」を名乗っていた。ややこしいので、本稿ではすべて「笠置シヅ子」とする。

ベスト盤「笠置シヅ子~ブギの女王」(日本コロムビア、2010)のジャケット。ロック歌手のような地声の迫力、スイングのドライブ感も素晴らしい

 松竹楽劇部は、阪急の宝塚少女歌劇団(1914年第1回公演)の成功をにらんで松竹の会長・白井松次郎(1877-1951)が1922年に大阪で設立した少女歌劇団である。指導者や作曲家は宝塚から引き抜いた。第1回公演の演目は「アルルの女」だった。

 阪急、宝塚、東宝の創始者、小林一三(1873-1957)は後年、こう書き残している。

「(「アルルの女」の)振付は楳茂都、作曲及び声楽は原田潤氏、オーケストラの指揮は松本四郎氏、この三先生を宝塚から引抜くことによって、松竹少女歌劇は創設されたのであるが、その当時宝塚はどんなに苦しんだかを思い出した。/爾来いつもいつも宝塚は引き抜かれるだけである。然し我々は、窃盗に這入っ奪いとるよりも、とられる方が倖せの身分であることを知っている。いつの世にも『世に盗人の種はつきまじ』と石川五右衛門のセリフを知っているから、この先々も窃盗に犯されぬように注意する必要がある、と警告するのである(二六・二)」(小林一三『宝塚漫筆』阪急電鉄、1980)。

 松竹を石川五右衛門になぞらえているのだから、小林一三の怒りは長く続いたのだろう。この文章は1951年に書かれたものだ。

 松竹楽劇部の本拠地は大阪・道頓堀の松竹座だった。1928年には東京松竹楽劇部が発足し、東西2劇団体制となっている。これは宝塚よりも早い。東京宝塚劇場(東宝)のオープンは1934年である。

 1933年に東京松竹楽劇部は松竹少女歌劇団(後のSKD)、34年に松竹楽劇部は大阪松竹少女歌劇団(OSSK)へ改称した。

 名称の異動が非常にややこしい。戦後SKDで知られた松竹歌劇団は東京の松竹少女歌劇団の後身、現在も大阪を本拠に興行を続けているOSK日本歌劇団は、OSSKの後身である。歴史的な名称を継承しているのでOSKを冠している。

 ちなみに、東京のSKDは1996年に解散、大阪のOSKは1971年から近鉄の経営となる。2003年に近鉄の経営危機で解散したが自主公演を続け、07年に大阪のワンズカンパニーというイベント会社の経営となり、09年からは株式会社として運営されている。