出演直前に「東京ブギウギ」に変更させられたひばりは、それを練習していなかったので出だしを失敗し、楽屋で悔し涙を流したというエピソードがひばりの評伝やテレビドラマで伝えられ、笠置は美空ひばり伝説の“悪役”として、以後長く登場することになる。

 笠置がひばりの失敗を予想してわざと直前に曲目を変更したように、長く伝えられた。まるで、歴史が“勝者”によって書かれることと似ている。

 日劇出演後にひばりはコロムビアで「河童ブギウギ」(作詞・藤浦洸、作曲・浅井拳嘩)を吹き込み、これがデビュー曲となった。実はこのとき、コロムビアでは異論があり、笠置の「ヘイヘイブギー」をひばりに歌わせて“本家”と“モノマネ”の競作にしようという案が持ち上がったが、笠置が反対して結局ひばりのデビュー曲は「河童ブギウギ」になったというエピソードがある。

 発案が会社かひばりの側かは不明だが、笠置の側にその申し入れがあり、笠置がそれには断固反対した。

 ひばりとの競作を笠置が反対したことは、結果的にひばりのためにもよかった。「河童ブギウギ」はヒットしなかったが、その後ひばりは笠置のモノマネではない自分の持ち歌として「悲しき口笛」を吹き込み、これが大ヒットしたのであり、1949年秋、コロムビア専属歌手となって12歳の戦後派スターが誕生した。もはやひばりは“横浜のベビー笠置”ではなくなったのだ。