大スターとなったひばりに
申し入れられた「ブギ禁止令」

 だが1950年春、今度はたしかに、笠置と服部はひばり側に自分たちのブギを歌うことを禁じる申し入れをすることになる。

 10代からすでに天性とも思える歌唱力・演技力を発揮し、20歳で大スターとなった美空ひばりが、「大好きな笠置先生からにらまれることになった」と自伝で告白した意味は、もはやスター同士の個人的・感情的問題ではなくなった。

 スターの周辺の、興行に関わる何人もの人々や組織のビジネス的思惑、野心、成功への布石や打算、ひいては芸能人が庶民とは桁違いの莫大な報酬を得る芸能界という業界のあり方にまで目を向ける必要がある。

 そんな話はかつて(今も?)スターにまつわるさまざまなトラブルとして少なくないのだが、当時のひばり自身は知らなかったと思われる複雑な理由があった。

 1949年10月に女優の田中絹代が渡米して以来、翌1950年にかけて多くの芸能人、国会議員、文化人たちがこぞってアメリカに旅立ち、メディアが華々しくそれを報じた。

 そんな彼らを一部のマスコミは、アメリカ帰りという箔付けのためアメリカでションベンだけして帰る、という意味の“アメション”と皮肉ったが、日米交流ブームは時代の流れだった(当時の日本人が渡米するのは今みたいに簡単なことではなかったが)。この流れに笠置とひばりが乗ったのも別に不思議はない。