背中に銃を突きつけられて列車に乗り
家族に連絡できないまま刑務所行き
事故を起こしかけてから抑留生活、釈放……に至るまでの實氏の記憶は鮮明で、さまざまな機会に語られてきた。証言は聴き手や時期によって多少の齟齬が散見される。以下はそれらを参考にしながら、私に語ってくれた証言を主にしたものである。
「次の日、背中に銃を突きつけられて貨物列車に乗せられた。真岡に着いたら、そこで機関士の免許証、腕時計、懐中電灯、現金……持ってたものは全部没収だよ。
その日の夕方、また貨物列車に閉じ込められて豊原に向かったんだ。列車の中には日本人が4、5人とソ連兵がいたな。豊原に着いたのは朝まだ暗いうちで、駅から車に乗せられてそのまま豊原刑務所さ。家族にも連絡できないんだ」
刑務所の同室には日本人の他、ロシア人、朝鮮人など、20人ほどが詰め込まれていた。日本人のほとんどは密航(編集部注/ソ連占領下の樺太から脱して北海道に向かおうとする密航のほか、残した家族を案じて北海道から樺太に逆密航を試みる者も多数いた)を失敗した人で、ロシア人は窃盗犯が多かったと記憶している。
部屋は板の間で毛布も何もない。雑魚寝するしかないのだが、夏なので寒くないのが救いだった。