日本人はなぜ、追いつめられると戦略思考ができなくなるのか。旧日本軍の敗戦から今日の企業不祥事・社会問題まで、今も昔も日本的組織が抱える問題には共通点が多い。教条主義、反省部屋、員数主義、上意下達、言葉狩り、責任逃れ……問題解決をはばむ「日本病」の正体とは? 15万部のベストセラーとなった『「超」入門 失敗の本質』の著者が、日本的組織のジレンマを読み解く。(初出:2016年11月24日)
日本病と戦略思考の欠如
大東亜戦争(太平洋戦争)では、旧日本軍はさまざまな点で合理的精神・戦略性が欠けていたと言われます。戦艦での決戦、夜襲白兵戦闘、レーダーで待ち構えている敵への航空攻撃など、「過去はうまくいった」方法を繰り返して、敵が準備万端で待ち構えているところに突撃して全滅する。名著『失敗の本質』でも、教条主義という言葉がこの行動を端的に表しています。
一方の米軍は、一度失敗したことを繰り返さず、適切な対策を施した上でそれを乗り越えて前進していきます。この違いを、心理学者である岸田秀氏は『日本人と日本病について』(山本七平氏との共著)で次のように指摘しています。
「わたしはまだこの戦争にこだわりつづけている(中略)。この戦争における日本軍の作戦や戦闘のやり方におかしなことがいっぱいあったからである」
「『おかしな』というのは、心理学、精神分析を学ぶ者としての観点からである。わたしから見れば、どうしても日本軍の行動には、神経症的、精神病的と言える異常反応が目立つのである」
「アメリカ軍はすぐさま、艦船の急旋回や護衛機の増強などの対策を立て、最後の頃の特攻機の命中率は五パーセント以下になった。それでも相変わらず、日本軍は特攻攻撃をやめなかった。とにかく日本軍は、失敗に懲りず、失敗から教訓を引き出さず、同じ失敗をまた繰り返すのである」
岸田氏は「はなはだ口惜しいことながら」と前置きした上で、このような日本軍の姿から、ネズミに神経症を起こさせる心理実験を思い出すとしています。ネズミをT字路のスタートラインにおき、突き当りの一方に曲がればエサがあり、もう一方で電気ショックを受ける仕組みです。右に常にエサ、左が電気ショックの場合、ネズミはやがて学習して必ず右に曲がるようになります。
ところが、T字路の先(左右)にいっさいの規則性を持たせないと、「そのうちネズミは、状況を無視した固定的、強迫的反応を示しはじめる。たとえば、餌があろうがなかろうが、右側なら右側へ曲がる反応が固定する」のです。この強迫的反応が、日本軍が繰り返し行った自滅的突撃に似ていると岸田氏は指摘しています。ではなぜ、このような自滅的な行動が繰り返されていったのでしょうか。
戦地で「反省部屋」まで作った
インパールでの日本軍
書籍『インパール作戦従軍記』(丸山静雄・著)には、日本軍が最前線に「反省のテント」を作り、上級指揮官が、部隊指揮官に屈辱を与えるために使っていたことが書かれています。
どんなに無謀な作戦でも、実行させるためにです。作戦に失敗した部隊指揮官は「反省のテント」に入れられて、次は敵に向かって最後の突撃をすることを命じられました。
「攻撃に失敗すると、指揮官は支隊本部に呼びつけられ、『反省のテント』のなかで謹慎を命じられた(中略)。次々に指揮官がいれられるところから、わたしは『反省のテント』と呼んでいた。薄暗いテントのなかで、指揮官は幾日も一人黙然と静座し、やがて『最後の突撃』をいい含められて、悄然と前線にもどっていくのであった」
「呼ばれて伊藤少佐は本部に来たが、なかなか支隊長は会おうとしなかった。伊藤少佐は『反省のテント』のなかに座って待った。やがて呼出しがあって伊藤少佐は支隊長の前に立ったが、攻撃失敗を口ぎたなくののしられ、『最後の突撃』をいいわたされた」
「伊藤少佐」とは第213連隊の伊藤新作少佐で、過去の戦地では勇戦奮闘した経験豊富な指揮官でした。しかしインパールではあまりに作戦が無謀で、命令がむちゃなものであることから、敵の猛攻の前に陣地を撤退し、のちに解任されてしまいます。
日本軍では、作戦が非効率・無謀であることについての現場から上層部へのフィードバックは一切許されていませんでした。無謀な作戦を出した上層部、それをただ上意下達で指示する上級指揮官は現場の状況をなんら受け止めず、安全な場所で苛烈な指示を繰り返したのです(伊藤少佐を罵った支隊長は、常に一番安全な場所に隠れていた)。
日本軍のゆがみを吸収したのは、すべて現場の部隊でした。作戦を立案する側は、効果的な打開策なきままに、神経症的に同じ(無謀な)指令を繰り返し、その悲惨な結果は現場の日本兵がその命であがなったのです。