「娘をソ連兵に差し出し…」日本軍に捨てられた日本人を襲った“過酷すぎる運命”Photo:PIXTA

1945年8月9日、日ソ中立条約を破ったソ連は、150万以上の大軍を動員して満洲の北と東と西から怒涛の侵攻を開始した。だが、満洲防衛の任務にあたっていたはずの関東軍は我先に逃亡したため、各地で暮らしていた日本人は取り残されてしまう。なぶり殺されるくらいなら自決するか、それとも生きて本土に帰るためなら耐え難きを耐えるか。彼らは、究極の選択を余儀なくされた。本稿は、山下清海『日本人が知らない戦争の話――アジアが語る戦場の記憶』(ちくま新書)の一部を抜粋・編集したものです。

日本軍に棄てられた満洲開拓団は
母子や老人だけで決死の逃避行

 1932(昭和7)年3月、日本の傀儡国家、満洲国が設立された。その後、満洲に移り住んだ日本人移民や日本軍兵士は、「アジア・太平洋戦争」の状況の悪化により、きわめて過酷な運命をたどることとなった。

 1945年8月6日、広島に原爆が落とされた。その2日後の8月8日、ソ連は日ソ中立条約を破棄し、日本に宣戦布告した。そして、8月9日未明、国境を越えて満洲国へ侵攻してきた。

 ソ連の参戦を知った関東軍(編集部注:満洲国防衛の任務にあたった日本軍)や軍人家族らは、即座にトラックや列車で満洲国の南部へ避難した。そのため、民間人や満洲開拓団の家族らがソ連侵攻を知ったときには、すでに現地に取り残されていたのである。

 現在の北朝鮮と中国の国境に、長白山(朝鮮名、白頭山)に水源を発する図們江が流れている。中国の吉林省延辺朝鮮族自治州側から見ると、北朝鮮側の兵士や農民の姿が確認できる。図們江に架けられた橋の中には、「断橋」(折れた橋)と呼ばれる途中で破壊された橋が残されている。8月12日未明、関東軍が満洲から北朝鮮方面へ逃げる際、ソ連軍の追跡を防ぐために自ら橋を爆破したのである。

 本来、満洲開拓団員を保護すべき関東軍は、開拓団員を置き去りにしたまま退却していった。無防備の開拓団員は、ソ連軍の攻撃を避けながら、決死の逃避行をおこなった。その過程で、餓死、病死、虐殺、集団自決などの悲劇に見舞われた。

 周辺の中国人の中には、自分たちの土地を奪った日本人に敵意を抱いている者も少なくなく、ソ連・満洲国境から遠ざかるための交通手段はなかった。そのため、夜間、ソ連兵や中国人の目を避けて、歩いて逃げざるを得なかった。

 満洲開拓団には召集はないとされていたが、戦況が悪化するにつれ、開拓団の成人男子も召集されるようになっていた。その結果、残されたのは団員の妻、年老いた両親、そして子どもたちであった。ソ連軍の侵攻や現地の人びとからの襲撃を恐れた開拓団員は、逃避行の過程で肉体的にも精神的にも追い詰められていった。

 しだいに「足手まとい」となった幼児や高齢者を現地に残さざるを得なくなったり、「幼児の泣き声で、敵に見つかってしまう」と批判された母親が、自らの手で幼児の命を絶つような悲劇も起こった。また、これ以上の逃避行は無理だとして、病人や高齢者のなかには自ら命を絶った者もいた。そして、集団自決した開拓団も少なくなかった。