長く続いたデフレの「ノルム」は変わったのか。企業の価格転嫁や賃上げの広がりはあるが、今回のインフレ局面での価格転嫁率は米独の4~6割にとどまり、賃金上昇も世界的な供給構造変化や国内の人手不足に起因する。健全な物価上昇の前提になる生産性上昇を、大企業と中小企業の二重構造や雇用重視の労使関係、保護政策が妨げている構造は変わらないままだ。(法政大学経営大学院教授/日本総研客員研究員 山田 久)
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値下げ競争や賃金抑制の
ノルムは本当に変わったか
「失われた30年」の象徴だったデフレ的状況に大きな変化が見られる。1992年末以降、消費税率引き上げ時を除いて2%を上回ることがほぼなかった消費者物価指数(生鮮食品除く総合)の前年同月比が、2022年4月以降2%を上回る状況が定着している。
日本銀行は、高賃上げや価格転嫁の動きが広がり、景気と物価の好循環による物価目標実現の確度が高まったことを理由に、3月に続き7月も政策金利を引き上げた。
デフレが長く続いてきた一因に、企業や消費者の多くが共有する物価の相場感である「ノルム」の存在(注1)がいわれてきたが、内田眞一日本銀行副総裁は今年5月の日銀主催国際コンファランスの基調講演で、「マイルドでしつこいデフレが現在の物価と賃金は将来も変わらないという、ある種の社会的なノルム(social norm)は解消に向かっている」と語っている(注2)。
本当だろうか。確かに、物価が上がらない、上げられないことを前提に値下げ競争や賃金を抑える企業行動は大企業などでは変わってきている。
だが「デフレノルム」を生んだ構造は残されたままだ。そして新たなノルムが形成されつつあるかは確認できていない。
注1 ノルムとは、ある国のある時代に物価がこの程度で上昇していくだろうと、企業や消費者の多くが共有する物価の相場感のこと。米国の経済学者アーサー・オーカンが提唱した概念だが、渡辺努・東京大学教授が2022年に書いた『物価とは何か』の中で、日本の物価状況を説明するために用い、その後、この概念は一気に広がった。
注2 https://www.boj.or.jp/about/press/koen_2024/ko240527b.htm