その尾崎によれば、東大の女性学生をはじめ、男女共学になった大学の女性学生は「新制度の連れ子」に過ぎなかった。つまり、戦後10年を過ぎても、東大は「建物、設備も、教科内容も、先生の心がまえも、ほとんどすべて男性専用の大学であった当時のままといっても云いすぎではない」状態が続いており、女性たちがこの「男性専用」の大学と社会の中核で活躍する余地はないのだった(注1)。
そこで尾崎は1958年に『婦人公論』(12月号)誌上で「東大花嫁学校論」を発表し、「男女共学の大学は、よろしく高等花嫁学校としたらいかがか」と述べ、なかでも東大は「本邦最高の花嫁学校であってもいいのではないでしょうか」と提案した。
注1 尾崎盛光「東大花嫁学校論」『婦人公論』1958年12月号、138〜141頁
大使や公使のホステス妻には
東大卒女性がふさわしい
尾崎は、東大のような教育機関では「今までの花嫁学校では養成できなかった大型ホステス、社会的な発言と活動のできる主婦が男女共学の大学によって育てられる」はずだ、と言う。
たとえば東大卒の男性は将来、大使や公使として「国連で活躍」するから、東大卒の女性は「ホステスとしてのかたわらユネスコの嘱託となる、などというのもごく自然なイメージ」であるとし、あるいは研究者と結婚して夫の研究を手伝うとか、「翻訳をしながら配偶者を助け」るのも良いだろう、とも書いている。