コミュニケーションが取れない、栄養が偏りがち、食べる量が多くなる、あるいは少なくなる、基本的な食事マナーが身につかないなど、子どもの成長にまつわる多くの課題が指摘されていたのです。

 そこで、「子ども食堂」で食事を提供し、集まって食べてもらう。残念ながら、コロナ禍で活動を自粛していた団体もありましたが、日本中で子ども食堂が運営されるようになっています。

 もっともっと身近なお話。ショッピングモールをはじめとする数多くの商業施設や駅、公共施設でこの10年で大きく様変わりしたものがあります。

 トイレです。子ども向けのトイレ、小さな子を連れた親向けのトイレ、授乳室を併設したものなど、工夫されたトイレが増えています。

 また、人工肛門・人工膀胱を使っているオストメイトの方向けトイレ、車いすの方が使える多用途トイレの設置も当たり前になっています。

問題の核にある「痛み」に
気づける人がビジョンを生む

 これらのケースで解決したかった問題に共通するのは、当事者の「痛み」です。肉体的な痛みのみならず、むしろ感情的な心の痛み。自覚できる痛みだけではありません。ちくちくと心にささくれがある状態。しかも、「それでしょうがない」と諦めているような、小さいけれど、無視できない痛み。

 車いすを使っているんだから、不便で当然。

 人工肛門だから、苦労して当たり前。

 両親が共働きだから、食事は1人で取るしかない。

 これは当たり前なのかどうか。問題の核には「痛み」があるのです。これを見つけられる、共感できる人が、ビジョンを生むと思っています。

 先日、(株)リクルート主催の高校生Ring Award(全国123校2万5000人を超える応募者の中から選ばれたファイナリストによるピッチ大会)に審査員として参加しました。「半径5メートルの身近な気づきが世界を変える」というテーマ、まさにこれです。

 私はいつも学生に対して「社会への共感」「当事者意識」を持てと言っています。痛みを知り(共感)、その痛みを自分の痛みだと認識する(当事者意識を持つ)。そして、その痛みを「解決する側」に立つ。不平不満の声に加勢するのではなく、身をもって行動する。傍観者にならない。Empathy(and compassion),not sympathy.これが共感と憐れみとの、大きな違いです。