もしも大谷選手が
高卒で渡米していたら
――これはある野球選手に起こったかもしれない、「失敗のストーリー」です。
2012年のドラフト会議で地元球団から1位指名を受けながら、拒否してMLBを目指した選手がいました。彼はマイナー契約だった上、米国人との体力差や、広大な大陸をバスで移動につぐ移動という日程のきつさ、食事も合わないという状況に苦戦していました。もともと18歳まで身長が伸び続け、成長痛に悩まされて、高校野球もフル稼働したことがなかった選手には、いきなり米国選手と対抗することは相当困難でした。
渡米前は「投打二刀流」を希望していましたが、長打力では中南米の怪力選手に劣り、投げても平均球速150km程度という投手は、米国マイナーリーグにはゴロゴロいます。メジャー昇格どころか二刀流も禁止され、打者一本槍となってしまいました。
しかも内野手ではないため、外野だけだと中南米や白人選手のものすごい長打力には歯が立ちません。結局、マイナーの1Aに上ったのが最高の成績で、そのまま解雇。本国に戻っても、ドラフト指名を拒否してメジャー入りした選手は、すぐには地元プロ野球には戻れません。
仕方なく、台湾のプロ野球に身を投じた後、なんとか日本のプロ野球に入ろうと独立リーグに入団。そこから本国のプロ野球に辿り着いたときは、もう高校卒業から7年もたっていて、大した活躍もできないまま野球人生を終えようとしています。
野球に詳しい読者ならお気づきだと思いますが、これは大谷翔平選手がドラフトで日ハム球団を拒否し、自らの希望を貫いて高校から米メジャーリーグに行った場合、どうなっていたかについてのシミュレーションです。
モデルは、韓国の高校から斗山ベアーズのドラフト1位を拒否して2006年に渡米した南尹熙(ナム・ユンヒ、のちに「ナム・ユンソン」に改名)と、同じく翌年KIAタイガースの指名を受けながらメジャー入りを目指した丁栄一(チョン・ヨンイル)の失敗の物語です。
今や世界の大谷も、高卒で渡米していたらこうなった可能性は十分にあるのです。もちろん、韓国選手で2000年に高卒でメジャーに行き、通算1652試合出場、本塁打218本を放った秋信守(チェシンス)のような英雄もいますが、彼もメジャー昇格には4年もかかりました。
この数年、大谷選手のメジャーでの活躍と米国での大スター扱いに日本人も大興奮し、海外における日本人選手自体の評価も上がりました。これは大谷選手の素質と努力、そして類まれな人格の賜物であることはまったく否定しません。しかし、「にわか大谷ファン」の方たちに知ってほしいのは、大谷選手が18歳のとき、高校からいきなりメジャー入りを目指していたという事実です。それも「投打二刀流」というメジャーにもない起用法で――。