引退後は下着メーカーの営業マンとしてサラリーマン生活を送っていたところを、当時の大沢啓二監督が声をかけ、スカウトとして再入団したという変わり種のトップです。スカウトとしては敏腕を発揮して、武田一浩、ダルビッシュ有、中田翔などを指名していましたが、彼のスカウト哲学は「チーム事情で即戦力投手を狙う」といった今までの監督中心の近視眼的チーム補強をやめ、その年の一番いい選手を指名する長期的展望に立った補強でした。
そして、その山田氏の下にもう一人変わり種のスカウトが入団してきました。プロ野球経験がなく、新潟県立西川竹園高で体育の指導に当たっていた大淵隆氏(当時35)です。そして、この異色コンビが大谷の日本ハム入団を成功させました。
野球ファンに語り継がれる
『大谷翔平君の夢への道しるべ』の中身
指名直後の大谷選手の反応は頑なで、スカウトの挨拶にも会わないまま。しかし、一般社会の経験がある大淵氏は、「大変なことになった」と思いつつ、何度めかの挨拶で両親の様子を観察し、「両親は、息子にまず日本でプレーしてから渡米してほしいと思っている」と確信したと言います。両親を説得するため、彼がつくった資料『大谷翔平君の夢への道しるべ』は、ある時期までネット上にも公開されていたため、野球ファンならかなりの人が読んでいたと思います。
それは、常識のある大谷家の両親と本人に対して、十二分に納得できるデータを用意して、球団の受け入れ準備も含めて説明したものです。たとえば前述したように、韓国から高卒のままメジャー挑戦した選手のうち、1軍で実績を出したのは3人のみで、しかも活躍時期が短く、成功したと言えるのは野手のみ。日本人の場合も、日本のプロ野球で実績をあげてメジャーに行った選手は9人いるが、実績のない選手がメジャー経験をしたケースは少ない、など。
まず、日本では高卒でメジャー挑戦して成功するとしたら大谷選手が初めてというリスキーな選択であることを数字で示し、たとえば「イチローがいきなり高卒で渡米して、イチローになれたでしょうか」という問いかけをして、日本のプロ野球で日本的スタイルを磨いて渡米する方が活躍できる可能性が高いことを、諄々とエビデンスを掲げて説明しました。
大谷家はこれを見て家族会議を開き、大谷選手も納得して日ハム入りを承諾しました。もちろんそこには、GMも二刀流の経験がある、そして日ハム球団でも二刀流を目指すことを認めて練習環境を整える、といった言葉も含まれていたと思われます。