とはいえ、彼の甲子園通算成績は、14回を投げ防御率3.77、16奪三振。野手としては2試合で打率.333、1本塁打。もちろん、高校野球予選で160kmの速球を記録するなど、その素質は誰もが認めていましたが、花巻東高校への入部時は佐々木洋監督の「まだ骨が成長段階にある1年夏までは野手として起用して、ゆっくり成長の階段を昇らせる」という方針により、甲子園でも投手として出場して長いイニングを投げることもなく、本大会出場のために予選で連投することもありませんでした。いわば「ロマンはあるけれども、すぐにプロ野球で活躍できるような選手ではない」というのが、スカウトたちの判断でした。

 それでも、大谷選手は最初からメジャーを望み、一応日米五分五分とは言いながら、ロサンゼルス・ドジャースやテキサス・レンジャーズ、ボストン・レッドソックスとの面談を経てMLBへの挑戦を表明し、会見では「日本のプロよりもメジャーリーグへの憧れが強く、マイナーからのスタートを覚悟の上でメジャーリーグに挑戦したい」と宣言したので、ますます日本球界は逃げ腰になり始めました。

各球団が指名を回避する中
大谷獲得に動いた日ハムの救世主

 その固い決意と完成度への不安から、大阪桐蔭高校で甲子園優勝投手の藤浪晋太郎に4球団が競合するなど、ほとんどが大谷指名を回避しました。ただ1球団のみ、日本ハムが敢然と1位で指名したのです。

 日ハムはその前年、巨人の原辰徳監督の甥である菅野智之投手を指名して拒否されており、この指名は下手をすれば2年連続1位指名選手が入団しないリスクを抱えていました(日ハムを拒否して巨人入りした菅野投手が今年ポスティングで渡米を目指すというのも、大谷選手との不思議な因縁を感じます)。

 しかし、当時の日ハム球団はチャレンジングでした。ホームグラウンドが東京ドームで巨人軍と併用だったため、北海道に移転。札幌で、お荷物球団から人気球団に変身しました。そして2007年、迎えたGMは山田正雄氏。元プロ野球選手ではありますが、1962年大毎オリオンズに外野手として入団したものの、通算成績は安打80、本塁打2、実働10年で、入団7年目から打撃成績が落ちて、1970年には投手に転向。5試合に中継ぎとして登板しただけの成績で、引退しました。