そのきっかけを作ったのが、このときの出来事であったとされるが、創価学会=公明党と田中派とが結びつく社会的な背景があった。
創価学会の会員となったのは、高度経済成長の波に乗って農村から都会へと出てきた人間たちだったが、その時点で農村に残った人間に利益誘導という政治的な救いの手を差し伸べようとしたのが田中角栄であり、田中派であった。
つまり、創価学会=公明党と田中派とは、元々は同じ対象を支持者として取り込んでいったのである。
学会の黒歴史「言論出版妨害事件」
会長就任10年目に池田大作が陳謝
田中以外に、公明党の都議会議員や学会員からも、『創価学会を斬る』を出させまいとするさまざまな圧力が藤原自身や出版社に対してかけられた。題名の変更を求めたり、出版時期を総選挙後にずらして欲しいといった要求から、全部買い取るので書店に並べないようにして欲しいという勧誘までなされたという。
たしかに、この『創価学会を斬る』は、創価学会の政界進出を批判した本だった。
藤原は、創価学会=公明党の「七つの大罪」をあげ、池田大作を創価学会の天皇と呼んでいる。そして、当時の創価学会が、自民党との連立政権をねらっているのではないかと予測している。
この予測は、30年後に現実のものとなるわけだが、連立を組んだときに、池田自身が「総理大臣への展望をもった何らかの大臣になれるというときに公明党委員長として乗り込んでくるのではないか」という予測は、今のところ的中していない。
ほかにも、創価学会=公明党を批判する本に対して、学会の側からさまざまな圧力がかかっていることが判明した。これによって、創価学会は窮地に立たされることになり、大幅な路線の転換を迫られることになる。
池田は、自らの会長就任からちょうど10年目にあたる1970年5月3日の第三十三回本部総会で、『創価学会を斬る』などに対する言論出版妨害事件について、「関係者をはじめ、国民の皆さんに多大のご迷惑をおかけしたことを率直にお詫び申し上げる」「今後は、二度と、同じ轍を踏んではならぬ、と猛省したい」と陳謝した。
そして、池田自身の政界不出馬、国立戒壇(編集部注:国家の意思として建立する本門の戒壇)の否定、創価学会と公明党との政教分離の明確化、強引な折伏活動の停止を約束した。実際、公明党の議員は、兼職していた創価学会の役職を離れていった。
世間の強い風当たりで議席減
公明党は新綱領で「国民政党」に
これは、創価学会にとってはじめての決定的な挫折の体験だった。
それまでも、創価学会が批判を受けなかったわけではないし、日蓮宗を中心とした既成仏教教団や、日本共産党系の労働組合運動などと衝突することはあった。しかし、創価学会が自分たちの非を認めざるを得なかったのは、これがはじめてのことだった。