1980年には、言論出版妨害事件の当時、創価学会の顧問弁護士であった山崎正友を中心としたグループが、学会批判の急先鋒にいた日本共産党の宮本顕治書記長の電話を盗聴していたことが明るみに出た。これで、創共協定は、事実上死文化した。

 また、山崎らのグループは、敵対関係にあった妙信講(現在の顕正会)に対しても盗聴を行っていた。

 こうした事件が発覚したことで、ふたたび創価学会は世間やジャーナリズムの批判の矢面に立たされることになる。

 妙信講は、創価学会と同様に、日蓮正宗の信徒団体であった。その創立は戦時中の1942年のことで、浅井甚兵衛ほか15世帯で結成された。

 妙信講は、日蓮正宗の教えを忠実に守ろうとし、日蓮を本仏とすること、国立戒壇の建立を目的とすること、板曼荼羅本尊を唯一絶対の本尊とすること、血脈相承による正統派意識をもっていることを特徴としていた。そして、創価学会以上に戦闘的で、非妥協的な姿勢をとってきた。

若い会員のエネルギーの捌け口
「世界青年平和文化祭」

 妙信講は、言論出版妨害事件の直後、日蓮正宗の宗務院と創価学会の首脳に、「正本堂に就き宗務当局に糾し訴う」という文書を送付し、創価学会の路線転換を批判し、あくまで国立戒壇の建立を目的とするよう訴えた。

 しかし、日蓮正宗の側は、創価学会の主張を認め、1974年8月に妙信講を破門した。

書影『創価学会』(新潮社)『完全版 創価学会』(新潮社)
島田裕巳 著

 妙信講は、1982年10月には日蓮正宗顕正会と改称し、96年11月には、さらに冨士大石寺顕正会へと名称を変更、宗教法人格を取得した。現在、会員は50万人を超えるとされる。

 創価学会と比較した場合、その規模は小さいが、言論出版妨害事件で路線転換する以前の創価学会と似た強力な折伏を行い、創価学会に疑問や不満をもつ会員たちをも取り込んできている。顕正会は、創価学会の分派というわけではないが、学会を批判する有力な組織であることは間違いない。

 こうした事態を受けて、創価学会としては、言論出版妨害事件まで折伏や選挙活動に向けられていた会員たちの強烈なエネルギーの捌(は)け口を別に用意しなければならなくなった。そうしなければ、内部批判が起こり組織にほころびが生まれる可能性があった。

 創価学会が、とくに若い会員のエネルギーの捌け口として用意したものが、世界青年平和文化祭であった。

 親から信仰を受け継いだ学会二世や三世を中心とした若い学会員たちは、巨大なスタジアムで一糸乱れぬ人文字やマスゲームを披露し、組織の団結力を示した。創価学会は、若い会員の捌け口を用意し、彼らを組織のなかに取り込むことで、組織が瓦解する危機を乗り越えようとしたのである。