しかも、公明党との政教分離を明確化し、国立戒壇建立の目的を放棄することで、創価学会の政治活動は大義を失うこととなった。
もちろん、国立戒壇の建立だけが公明党結成の目的ではないにしても、学会員が選挙に自分たちのすべてを賭ける意味はなくなってしまったのである。
その上、会長自身が組織の誤りを認めざるを得なかったことも、創価学会にとって痛手だった。それまで強烈な折伏を展開できたのも、創価学会には誤りはないという学会員の確信があったからだった。その確信がなくなってしまえば、強烈な折伏自体が不可能になる。
公明党は、この事件を受けて1970年に新しい綱領を定める。そこでは仏教用語は使われなくなり、党の性格は国民政党と規定された。
また、大衆福祉の実現を政治活動の中心にすえるようになり、保守政党や革新政党とは一線を画した中道路線を掲げることとなった。
創価学会に入会した都市の庶民たちは、まさに福祉の対象となる社会階層に属しており、福祉の向上を望んでいた。それ以降、公明党の議員たちは、学会員の福祉向上をめざして、「どぶ板政治」に邁進していくことになる。
しかし、言論出版妨害事件以降最初の衆議院議員選挙となった1972年に、公明党は47議席から29議席へと大幅に議席を減らした。創価学会=公明党への世間の風当たりが強かった上に、これまでのような組織を上げての熱心な選挙活動がやりにくかったからである。
作家・松本清張が橋渡しをした
「創共協定」はすぐに反古同然
また、言論出版妨害事件を契機に、創価学会=公明党を批判する書物や記事が数多く出版、発表されるようになっていく。
創価学会をもっぱら批判した記事を執筆する「学会ウォッチャー」も出現し、それに反比例して、創価学会=公明党を客観的な立場から論評した書物や記事は、かえって減少していくことになる。
言論出版妨害事件直後の創価学会は、混乱し、迷走をくり返していたように見える。
1974年12月には、20年にわたって支持者の獲得で鍔迫ぜり合いを演じてきた日本共産党との和解をめざして、「創価学会と日本共産党との合意についての協定」、いわゆる「創共協定」を結んだ。
この協定は翌年7月に公表され、世間を驚かせた。
作家の松本清張がその橋渡しをしたとされるが、支持者獲得合戦が過熱化し、協定を結んでその沈静化をはからなければならない状態にまで立ち至っていたものと思われる。
しかし創共協定は、すぐに反古同然となる。