1945年8月15日、昭和天皇の玉音放送により、日本は敗戦を受け入れた。ちょうどその日、広島原爆で戦死した朝鮮王族の遺骸も故郷に帰還していた。日本支配からの解放に沸くソウル市民の姿は、彼の見えない目にどう映っていたのだろうか。※本稿は、城内康伸『奪還-日本人難民6万人を救った男-』(新潮社)の一部を抜粋・編集したものです。
日本が敗戦した日のソウルで
朝鮮王族の葬儀が執行された
「本日、畏くも停戦(ママ)に関する詔書を拝し、臣子として恐懼慚愧(きょうくざんき)、九腸寸断の思いに堪えず」
朝鮮総督府では、在庁していた職員が会議室に集まって玉音放送を聴いた後、最後の総督となった阿部信行が涙で声をつまらせながら諭告を読み上げた。
戦前には朝鮮総督府に勤務し、戦後に京城で北朝鮮からの脱出者の援護業務に携わった森田芳夫(1910~1992年)という人物がいる。この森田が数多くの日本人引き揚げ者に対する聞き取り調査の結果や膨大な資料を基にして著した日本人の引き揚げ史『朝鮮終戦の記録-米ソ両軍の進駐と日本人の引揚』(以下、『朝鮮終戦の記録』)は玉音放送直後の京城府内の様子について次のように伝える。
〈総督府をはじめおもな官庁で、重要書類の整理焼却がはじまった。もう京城府内には、国民服やモンペをやめて白衣(朝鮮の民族衣装のこと)をきた多くの朝鮮人が、町に出てゆうゆうと歩いていた〉
玉音放送が流れた直後の午後1時からは、朝鮮王朝(李朝)最後の王だった純宗(じゅんそう)の甥にあたる李鍝(イ・ウ)殿下の陸軍葬が、京城運動場で営まれた。
李殿下は陸軍士官学校(45期)を卒業して「日本軍人」となり、終戦直前、陸軍中佐として広島にあった第2総軍司令部の教育参謀を務めていた。終戦9日前の8月6日朝、乗馬して司令部に出勤する途中、投下された原爆に遭遇し、翌7日に32歳の若さで死去したのだった。遺体は軍用機で運ばれ、8月14日深夜に京城に着いた。
葬儀には朝鮮総督の阿部やナンバー2の遠藤柳作政務総監、朝鮮半島南部を管轄する第17方面軍の上月(こうづき)良夫司令官、さらには昭和天皇の名代として宮内省の坊城俊良(ぼうじょうとしなが)式部次長らが参列して、神式で厳粛に執り行われた。大日本帝国が崩壊したまさに当日、朝鮮王朝の血を継ぐ人物の葬儀が日本の陸軍によって、京城中心部で粛々と進んだのである。
その日の京城は比較的静かだった。京城帝国大学医学部講師だった田中正四は日記の中で、15日から16日朝にかけての様子について「歴史に特筆大書さるべき一夜は極めて平穏のうちに明けた。それは自分が想像したよりもはるかに静かなものであった。いつもの通り大学に出かける。街も極めて平穏である」(田中正四著『痩骨先生紙屑帖』)と記している。