水俣病の原因企業「チッソ」は、戦前は朝鮮半島に進出し、大規模な電力・化学コンビナートを建設。日本屈指の大企業となったが、1945年夏の敗戦により社運は一変した。工場はソ連人と北朝鮮人に接収され、高度な知識と技術を持つエリート従業員たちまでもが囚われてしまったのである。※本稿は、城内康伸『奪還-日本人難民6万人を救った男-』(新潮社)の一部を抜粋・編集したものです。
ソ連軍は技術者もろとも
日本の工場群を接収した
筑波大学名誉教授の宗像(むねかた)英輔は1940年に中国との国境を流れる豆満江に面した阿吾地(アオジ)で生まれた。化学への探究心は父親譲りなのか、彼は、アミノ酸が複数結合した状態のペプチドに関する有数の研究者である。英輔は1946年4月、興南(フンナム)から闇船に乗って、父より一足先に日本に引き揚げた。
「父、宗像英二は戦前、課長ぐらいの職責で現場の中心として、日本窒素の大きな工場を動かすのに力があった。戦争が終わって、北朝鮮に工場を全部とられてしまうけど、工場は彼らだけで動かない。それで、朝鮮側から声をかけられて働くことになったんです。そのせいで、父は(日本に)帰れない日が続きました。ある意味、幽閉されたような状況になったんです」
宗像英二は興南日本人居留民会副会長を務めた人物だ。日本窒素(編集部注/戦前期の日本の化学工業をリードした大企業。現在のチッソ)の興南工場でアルミニウムの製造に携わっていた時に、37歳で終戦を迎えた。
日本の植民地支配下にあった朝鮮半島では金属、機械、化学、鉱山、電力など主要産業は日本人が担っていた。北朝鮮各地にあった日系工場は解放後、ソ連軍占領下の北朝鮮最高機関・臨時人民委員会が接収した。
宗像がそうであったように、日本人技術者は追い出された。しかし、技術力が未熟で経営知識の乏しい朝鮮人だけでは、工場を操業できなかった。しばらくすると、日本人技術者が職場復帰を請われるケースが相次いだ。
日本窒素興南工場の後身に当たる「興南地区人民工場」でも終戦から2カ月ほど経つと、日本人の労働者、技術者が工場に戻り始めた。10月20日ごろに平壌(ピョンヤン)から鄭濂守(チョン・ヨムス)が支配人として派遣されてくると、それまで工場を牛耳っていた急進派を放逐し、日本人技術者を迎える動きが本格化した。
大部分を日本に帰すためには
誰かが残らねばならない
そして、11月下旬に宗像、大島幹義(前竜興[リョンフン]工場第3課長)、昆吉郎(前本宮[ポングン]工場設計課長)、加藤恒夫(前肥料硫酸課長)をはじめとした日本窒素の課長クラスだった16人が招かれ、支配人直属の技術顧問団が生まれた。
工場の円滑な運転には熟練した労働者も必要だ。その結果、事務職なども含み、興南工場を追い出されて途方に暮れていた日本人約2500人が続々と働くようになった。
もともと多くの人は生きるために工場に復帰した。翌年春が来ると、日本に帰りたい気持ちは高まっていった。4月に入ると、工場で作業員として働いていた人々はどんどん脱出し始め、技術者の中にも脱出者が出始めた。