そんなとき、4月21日夜に興南工場のマグネシウム技術者が一斉に脱出する事件が起きた。進駐するソ連軍が興南工場の独自技術によるマグネシウム製造方法に関心を持ち、工場を再開させていた矢先のことだった。事件は、ソ連軍と朝鮮側の神経を極度に刺激した。技術者の脱出取り締まりが、にわかに厳しくなった。
宗像は手記「戦後の北鮮の思い出」の中で、当時の心境について次のように書いている。
「いずれは日本に帰らねばならぬと覚悟は堅かったが、そのころの朝鮮側の私に対する期待の強さから察して、私の帰国は容易なことでないと見通され、おそらくは無理な脱出をせねばならぬ状況に陥るのではないかと思えた」
日本人技術者の帰心は激しさを増すばかりだった。善後策を講ずるために、5月に入って、興南日本人居留民会会長の坂口徳蔵は、宗像や大島ら技術顧問団の16人を集めた。
「大部分の人を帰すためには、一部の人に残ってもらわねばならない状況にある。この際、残留者代表として、犠牲になるつもりで残ってもらいたい」
坂口はこのように要請した。当然のことながら、自発的に残りたいという人は1人もいなかった。
全従業員による投票で決めた
残留者代表の5人
「誰かが残ってやらねば、みんな帰れんということになる」
坂口は5月26日、宗像たちにこのように述べ、5人の残留者代表を選ぶことを提案した。この提案は受け入れられ、翌27日に興南地区人民工場の日本人就労者全員を投票権者として、選挙が行われた。
その結果、宗像、昆、大島、加藤、渡辺忠作という、技術顧問団のメンバー5人が残留者代表に決定した。宗像の長男・英輔が言うように、5人はまさに「幽閉」に近い状態に陥ったのだった。
この5人の指名によって、約300人の当面残留する技術者が選ばれた。坂口の提案が奏功して、非残留となった技術者のほとんどが6月中に脱出に成功した。
隔絶された北朝鮮では、技術者が日本や欧米諸国の書籍を入手することなど望むべくもなく、新たな研究課題に挑戦する術はなかった。興南工場に勤務した鎌田正二は回想記『北鮮の日本人苦難記』で「宗像英二氏たちの考え」について、次のように紹介している。
〈技術者に二種類の人がいる。一つは技術を考え出す型の技術者であり、もう一つは工場の運転に熟達した技術者である。ものを考え出す型の技術者は先に日本に帰るべきである。興南にいたのでは技術の進歩がとまってしまう〉