宗像も日を追うにつれ、帰国したい思いは強くなっていった。しかし、朝鮮側は決して許さなかった。宗像自身は、このころの心境について「家の廻りに監視が付いて自由を束縛されたりすると、やはり朝鮮にはこれ以上長く住んでいるわけには行かぬようになってしまった」と振り返っている。

「敗戦国民は思い通りにできない」
ソ連軍人は傲然と言い放った

 9月15日。北朝鮮特有の日照りの強い青空の澄んだ初秋の日、宗像は、監視役を兼ねた朝鮮人技術者2人と共に、興南駅で列車に乗り、丸1日かけて到着した清津(チョンジン)駅で下車した。グリゴリエフからソ連軍の清津地区における工業復興を担当しているアベリンという中佐を訪ねるように言われていたからだった。

 ソ連軍の事務所にアベリンを訪ねると、彼は宗像を歓迎し、清津地区の工業復興が大いにはかどるだろうと喜んだ。さらに宗像が驚く言葉を付け加えた。

「いずれサガレン(サハリンの古い呼称)に行って、工場復元にも協力してほしい。敗戦国民というものは思うように事を運べるものではない。サガレンで新しく家を構えて永住する方がいい」

 北朝鮮最果ての地で工場復興を終えた暁には、極東に向かってほしいという、想像だにせぬアベリンの発言に、宗像は色を失ったことだろう。彼は手記の中で「意外なことを耳にしたので、いよいよ決心をして遁げ出さねばならぬと覚悟した」と振り返っている。

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城内康伸 著

 数日を清津で過ごし、市内の工場を見て回った後、とうとう阿吾地に行く準備をするように命じられた。宗像は意を決して、9月18日、同行していた朝鮮人技術者の目を盗んで宿舎を飛び出した。

 清津北部の班竹(はんちく)町には旧三菱鉱業清津製煉所の社宅があり、満州や咸鏡北道(ハンギョンプクド)の北部から南下してきた避難民が暮らしていると聞いていた。そこで、班竹町に駆け込み、社宅街の奥まったところにあった半壊の家に身を隠した。

 数日も経つと、朝鮮側が宗像を指名手配して人相書きまで用意し、捜し回っているという話が伝わってきた。頭を丸刈りにし、蓄えていた口ひげをそり落として、妻の父の姓と実弟の名を組み合わせた「北岡国雄」と変名までして、別人に成りすました。

 しかし、脱出するための具体的な方法が見つからず、清津で過ごすうちに10月になっていた。