結局、鳥羽天皇のきさきとしては、待賢門院のほか、美福門院、それに、39歳で入内した藤原忠実の娘の高陽院の3人が立后した。いずれも道長の子孫だ。
崇徳天皇は、鳥羽院の強い意向によって、自身の異母弟で美福門院を母とする後の近衛天皇(在位1142~55)を皇太弟に立てさせられ、24歳の時、20歳も年下の近衛天皇に譲位させられた。
近衛天皇の後は、鳥羽院の意向で崇徳院の同母弟である後白河天皇(在位1155~58年)が即位した。だが、崇徳院は実子の重仁親王を帝位につけることを狙い、道長から五世の孫世代で跡目争いをしていたうち、忠通が後白河天皇に、頼長が崇徳上皇に付いて起きたのが、源氏と平氏の武者たちが活躍し、武士の世への序曲となった保元の乱である。
後白河院は、美貌と気配りに優れ、ロココ時代のポンパドゥ-ル夫人を想起させる建春門院(平滋子)を愛した。平清盛夫人である平時子の妹であり、紫式部の夫である宣孝の子孫だ。
建春門院が生んだのが高倉天皇で、そのきさきの一人だった七条院(道長の甥で「刀伊の入寇」で活躍した隆家の子孫であり、道長の次男・頼宗の子孫でもある)が生んだのが後鳥羽天皇で、そのきさきの一人だった承明門院(源在子。紫式部やその娘である賢子の子孫)の子である土御門天皇の系統が現皇室だ。
白河院の時代に歴史の舞台になったのは、風光明媚(めいび)な岡崎(八角九重塔で知られる法勝寺などがあった)とか、鳥羽(城南宮付近)だったことは、拙著『紫式部と武将たちの「京都」』(光文社)で地図付きで紹介している。
この藤原兄弟のけんかの時、忠通は関白だったが、頼長は藤原家氏長者としてのシンボルである三点セットを持って対抗した。
つまり、東三条殿(摂関家の本宅と認識されていた)や宝物の朱器台盤(冬嗣から伝来の宴会用食器セット)、御堂関白記など伝来の日記原本である。
日記は宮廷の仕事を伝承するために書かれ、これらの日記、なかんずく、道長の「御堂関白記」を持つことが総領のシンボルだったのだ。現代では近衛家に伝来されて京都の陽明文庫に所在する。
(評論家 八幡和郎)