藤原氏が朝廷を支配したのは
飛鳥時代ではなく平安時代中期から
NHK大河ドラマ「光る君へ」は、いよいよ大詰めで、12月15日放送の最終回では、藤原道長の死あたりまでが描かれるようだ。
道長や紫式部が生きた時代は、よほど歴史が好きな人でないとなじみがないが、その後の源平合戦までの百数十年は、さらに知られていない。そこで、「勝ち組」と「負け組」に分かれた道長の12人の子どもたちについて解説しながら、藤原氏全盛から院政の時代を経て武士の時代になるまでを眺めてみよう。
「光る君へ」の功績は、一条天皇などの天皇の人間像をドラマの登場人物として描いたことだ。摂関時代といっても藤原氏が好き放題していたわけではない。
最近、藤原不比等が過大評価されて、藤原氏が飛鳥時代から支配者だったように誤解されている。だが、桓武天皇や嵯峨天皇は独裁者だった。藤原氏が朝廷を支配するのは平安時代中期からで、901年に右大臣菅原道真が左遷されるまでは、他の古代豪族も大臣になっていた。
藤原一族の最有力者の誰かが娘を入内させ、若い天皇を母后に支配させ、外戚として君臨する形は、3人娘が3代の帝の正夫人となった道長の時代に完成した。
しかし、道長の後、外祖父として摂政になったのは、鎌倉時代の四条天皇の外祖父だった九条道家だけである。
代わって、年少の天皇を、実父である上皇(出家すると法皇)が支配するようになり、摂関制では陣定(じんのさだめ)のような合議制だったが、側近との協議だけで決定を下すようになった。
摂関は制度としては残ったものの、実質的な権限を失い、上皇の側近には家柄にこだわらず実力派の公家が集まった。