源頼朝の子孫と
いわれる島津家
ギリシャを訪問されていた秋篠宮皇嗣家の佳子さまだが、週刊誌やインターネットメディアにおいて、有力な結婚相手候補が浮上したと話題になっている。
お相手候補は一般人なのでAさんということになっているが、島津一門で玉里家と通称される旧公爵家の御曹司であることが報じられている。
詳しくは後述するが、最後の薩摩藩主・島津忠義は、久光の実子だが、伯父の斉彬の養子となって家督を継いだ。しかし、明治天皇は維新後、久光を懐柔するために別の公爵家を立てることを認め、2つ目の島津公爵家とした。玉里は久光の隠居所の名前だ。
今回の記事では、佳子さまの結婚を巡る周囲の状況と、話題になっている島津家のすごさと皇室とのつながりなどの閨閥(けいばつ)、そして、学習院や霞会館という旧華族の集まりについて解説をしたいと思う。
島津家は源頼朝の子孫といわれる。鎌倉市には源頼朝の墓所があるが、21世紀になって鎌倉市に寄付されるまでは、島津家の所有だった。また、頼朝の祭祀(さいし)は鶴岡八幡宮が行っているが、遺族代表のかたちで参加するのは、島津宗家のご当主だ。
ただし、もともと島津家の初代である忠久は、秦氏の流れをくむ惟宗朝臣を名乗る、漢族帰化人系の中級のお公家さんだった。
母は惟宗広言と通じて忠久を産み、後に安達盛長に嫁した。忠久は、祖母の比企尼が源頼朝の乳母だった縁で鎌倉に下り、薩摩・大隅・日向三国の守護とされた。その時に、近衛家の島津荘(宮崎県都城)を管理したことから島津姓を名乗った。
忠久は主に鎌倉に住み、比企の乱に巻き込まれたり、越前の守護になったりしたが、子孫が元寇の後は九州に住むことを命じられて土着した。そして、室町時代あたりから、源頼朝落胤説を流し、清和源氏だと称した。
一族は南九州各地に広く分散し群雄割拠だったが、戦国時代の島津忠良が戦国大名としての地位を確立した。父親は伊作島津家という中規模の領主だったが、その死後に美人だった母の常盤が相州島津家という有力者と再婚し、息子の忠良をその後継者とした。
忠良は有能で薩南きっての有力者となり、やがて宗家の後継者に子の貴久を送り込んだ。これが、大友宗麟と戦い、豊臣秀吉に服属した島津義久・義弘などの島津四兄弟の父である。ザビエルが鹿児島にやって来たのも貴久の時代だ。
こういう経緯なので、秦氏という立場では、伝承によれば秦の始皇帝の子孫であり、源頼朝の隠し子ということでは、その子孫になる。後者は怪しげだが、江戸後期の名君・島津重豪が、鎌倉に墓を建て、友人の水戸斉昭に頼んで『大日本史』にも書いてもらった。
あまり意味がなさそうにみえるが、幕末には2回にわたって将軍の御台所を送り込み、それをてこに御三家並みの格を獲得し、それが維新の原動力になった。
ついでにいうと、長州の毛利家は源頼朝を助けた公家出身の大江広元の素性がはっきりした子孫だ。