これらの場合に私たちが「相手の意図している回し方」を難なく理解できるのは、それらの道具の用途を知っているからで、使い方を知らないものだったり、相手のしたいことがよく分からなかったりする場合は、「回せ」のような単純な指示も格段に難しくなる。
こういった「語彙レベル」を超えてさらに「句レベル」「文レベル」になると、さらに多様な曖昧性の要因が加わる。その中の一つに、構造的な要因がある。大学で言語学の入門的授業に出たことのある人は、「白いギターの箱」とか「美しい水車小屋の娘」などの例を聞いたことがあるだろう。
つまり、「白いのはギターか箱か」「美しいのは水車小屋か娘か」といった、「白い」「美しい」の修飾先に関する曖昧性である。事実、ほとんどの句や文にはこの手の曖昧性があり、私たちはたいてい、曖昧性を残したまま「曖昧じゃないつもり」でしゃべっているし、文脈やら常識やらを使いながら他人の言葉の曖昧性を解消し、意図を推測している。
「今はもう動かないおじいさんの時計」という歌詞を聞いて、大多数の人が「動かないのは、まさか、おじい……いやいや、やっぱり時計の方だよね、うん」という良識的な解釈をするのも、歌のテーマや雰囲気を考慮して、作詞者の意図を推測するからである。
AIにとって「意図」を
理解するのは難易度が高い
AIにとっての問題は、「意図を特定するための手がかりが、言葉そのものの意味の中に入っていない」ということである。つまり、AIにいくら言葉そのものの意味を教えても、それだけでは意図をきちんと推測するためには不十分、ということだ。
何度も言っているように、曖昧な文から相手の意図を推測するとき、私たちが使うのは常識だったり、その場面や相手や文化に関する知識だったり、それまでの文脈だったりする。そういった、広い意味での「取り決め」を話し手と聞き手の間で共有していなければ、意図の伝達は成り立たない。そういう点では、「何かを回せ」のケースも、上島氏の「絶対に押すなよ」のケースも同じである。