よって「山」「川」である必然性はなく、相手との合意さえあれば別の言葉だっていいし、何なら「豊」を追加したっていい。だからこそ、部外者には意図を悟られない「合い言葉」として機能する。

 さらに言えば、こういうものは言葉である必要もない。相手との取り決めさえあれば、車のランプの5回点滅を「アイシテル」のサインにすることができるし、持ち物やジェスチャーなんかで意図を表すこともよくある話だ。

 完全に余談だが、筆者は学生の頃アメリカのサマースクールに行き、同行した友人のMちゃんと同じ部屋で1カ月ほど過ごした。そのとき防犯のため、私とMちゃんとの間で「ドアを開ける前にお互いを確認するための合図」を決めていたのだが、それは合い言葉ではなく、外から帰って来た方がドアをノックした後、覗き穴に向かって「アイーン」のポーズをするというものであった。

 そう、志村けんのあのポーズである。もちろん、中の者からすると、覗き穴から見た時点で外の者の顔は確認できるので、外の者が「アイーン」をやる意味はない。だが、私とMちゃんはサマースクールの期間中その取り決めを忠実に守り、外から帰ってくるたびに、部屋の中の友人に向かって「アイーン」をやり続けた。

 まさに、若さとは愚かさである。でも、今になって思うと、私もMちゃんも慣れないアメリカ滞在の中で、少しでも「日本での日常を思い出すような何か」を生活に取り入れたかったのかもしれない。ただしその「何か」が他の何でもなく「アイーン」だったというのは、やっぱり愚かだと言わざるを得ない。

「意図理解のための
暗黙の処理」の難しさ

 ずいぶん話が脱線してしまったが、今まで挙げてきた例は、意味と意図との違いを分かりやすく説明するための極端な例だ。そういうのは、実は『自動人形の城』にはあまり出てこない。この本の中に多く出てくるのは、「意味の面から見て妥当な範囲で話しているにもかかわらず、意図の推測に相当複雑なプロセスが関わっていることを示す例」である。