吉原で育まれた
蔦重と戯作者の関係性

 恋川春町が安永4年(1775)に鱗形屋から出した『金々先生栄花夢(きんきんせんせいえいがのゆめ)』は草双紙の歴史を変えた。この作品は幼童向けの粗製の絵本である草双紙(当時は青本)のパロディ、つまり青本を戯作化したものである。春町にしてみると一過性の思いつきであったと思われるが、画像にものを言わせる新たな戯作の誕生は、戯作流行の中、画期的な意味を持つことになった。同様の趣向で草双紙に戯れることが流行し、あっという間に草双紙は当世をうがつ戯作となっていった。喜三二の参入はこの流れに大きく拍車をかける挙となった。

 朋誠堂喜三二は秋田佐竹藩の留守居役平沢平格(ひらさわへいかく)の戯名である。享保20年(1735)生まれで、この安永6年当時は43歳である。二世雨夜庵亀成(うやあんかめなり)に入門し、雨後庵月成(うごあんつきなり)号で俳諧に遊んでいた。4歳年上の同役佐藤又兵衛朝四も俳諧に熱心であり、喜三二は兄事していたが、俳諧は社交の有力な道具でもあり、留守居衆必須の教養ともいえるものであった。

書影『蔦屋重三郎』『蔦屋重三郎』(平凡社新書)
鈴木俊幸 著

 その朝四の随筆『古事記布倶路』に「慶子(けいし)を上手なりと思ひしは、駿河屋魚躍が二階にて俳諧ありし時、野隠同道にて見えたり」とある。慶子は、上方女形の一流初代中村富十郎の俳号で、しばしば江戸に下って出演していた。

 その役者ぶりのことを誉めているのであるが、それを実感したのが蔦重の叔父駿河屋市右衛門の2階で行われた俳席であったというところは注目すべきであろう。朝四とともに接待等で喜三二も吉原に足を運んでいたであろうし、ここで俳諧に遊ぶこともあったであろう。蔦重の句は素外の『誹諧古今句鑑』に入集している。喜三二の月成句も素外の歳旦集にしばしば入集している。喜三二と蔦重との初めての出会いを特定することは困難である。駿河屋を介してのことであったのかもしれないが、いずれにしても、吉原という場が吉原内外の文芸の交流の場でもあったということが前提であろう。