食・芸・女性、どれも頭抜けて豪華な公認の遊里吉原は、江戸という都市の繁華の象徴であり、江戸っ子の江戸自慢のたねであった。江戸見物の目玉の1つでもある。権力と文化力、また札差(※幕府の旗本や御家人に支給される俸禄米の受取・売却を請け負った商人)や魚河岸の旦那衆などの経済力に守られた地位は鉄壁なように見えるし、吉原もがつがつ集客を図ったりするようなことも無く、安泰然としたそぶりを崩さなかった。それがここにきて、積極的なアピールを行いだしたのは、蔦重という切れ者が現れたからというだけではない切実な事情もあったと思われる。

 それは、非公認の遊里岡場所(おかばしょ)の隆盛である。とくに深川の人気は安永期からめざましいものがあった。江戸市中からは吉原より断然近く、店者が仕事を終えてからでも舟であっという間にたどり着ける。遊興費も吉原ほど高額ではなく、格式ばってもおらず、身の丈に合った手頃な遊びを得られるのである。経済的に突出した吉原贔屓の旦那衆は変わらず吉原の経済を支えてくれてはいるが、それに至らない遊びたい盛りの若い手合いの集客は深川とかち合ったりするわけである。吉原という機構全体が抱えるそのような減速感を打開する必要を感じ始めていた折に、機構の内部から頭角を現したのが蔦重であったのであろう。

教養をひけらかして遊ぶ
笑いのセンスを競う戯作

 さて、持て余した才能を文芸に振り向けていった武士たちの間で発生した、新たな文芸が戯作である。四書五経(ししょごきょう)をはじめとした漢学修業を通じてこれまで培ってきた学問世界の言葉をことさら用いて卑俗な世界を表現し、そのギャップを笑いとしたものである。レベルの高い学問の素養があってこそ笑えるようなペダンティックなものである。1人書斎で表現の彫琢に励むようなものではなく、仲間内で競い合って哄笑する類のものであった。遊里の様子を堅苦しい漢文で叙述するような戯文が作られた。それが、小説的結構を備えていって洒落本が生まれる。

 折しも世を挙げて通の時代、戯作の目指すところ、戯作の動機、戯作に通底する美意識も通となる。いかに最新の情報を取り入れて、皆がまだ気付かずにいるところ(これを「穴」と言い、それを指摘することを「穴をうがつ」、指摘そのものを「うがち」と言う)を鋭く突くこと、教養に裏打ちされた巧みな表現でセンスのいい笑いを勝ち取れるかが競われる。つまり、他に優位に立つ自分自身の通を戯作という表現で実現する試みである。