当然のことながら、障害当事者にとって、それぞれの抱えている障害が「たんなる不便」として片づけられるものであるかどうかは人それぞれであるだろう。そして「人それぞれ」というのはもちろん、主観的なものもあるだろうが、しかしそればかりでなく、現実に客観的な条件からして一人ひとりの抱える事情は異なっているという事実も重要である。

 一口に「障害」と言っても、実際にはその内実はきわめて多様であり、障害のタイプはもちろんのこと、その重さや質はまったく一様でないからである。

 にもかかわらず、私たちはしばしばそれを、あたかも単一のカテゴリーであるかのようにして、「障害」や「障害者」という一語で片付けてしまいがちである。

 冷静に考えてみるとそれは粗雑な押し込めであって、そして言うまでもなく「障害もひとつの個性」という語り口は、まさしくその典型的なひとつにほかならない。その意味では、この対立軸が浮き彫りにしているのは、「障害」カテゴリー内部の多様性だと言うことができる。

 生まれつき両手両足が使えない障害をもつホーキング青山が、障害個性言説を批判的に論じた文章の中で指摘していたのも、まさしくこの視点であった。

「社会参加という観点で考える場合は、この「障害者」というカテゴリーはあまりにも大きすぎるし、なおかつ障害者というものの理解への妨げにさえなっていると思う。〔中略〕「多様性」を尊重するのならば、まずは「障害者」という大雑把な括りを捨てる必要があるのではないか」(ホーキング青山2017、53頁)。

 たしかに当該カテゴリー内部の多様性を一切捨象して「障害」全般をひとくくりに「個性」という言葉で規定してしまうことには、もともと無理が伴っていたとも言えるのである。

世間の受け取り方に
生じた混乱

 第2に指摘できるのは「包摂のレトリック」と「差異化のレトリック」との間の混乱である。

 障害個性言説は、「個性」をめぐる語りのスタイルとしては、それまで優勢だった「差異化のレトリック」とは異なる新しいタイプの話法としての特徴を備えている。

 すなわち、ここでいう「個性」は、他とは違うことを指向しているのではなく、むしろそれとは正反対に、「ノーマライゼーション」――つまり通常の偏差の範囲内に位置づけられることを指向する用語としてのそれであった。

 しかしながら世間の側はもちろん、このような視座の転換にあっさりと順応しきれるものではない。