
発達障害への理解が進んでいるかのように見える現代。その一方で、「発達障害は個性の延長であり、豊かな才能を持っている証」というポジティブな捉え方が思わぬ弊害を生むことも。こうした言説から垣間見えるレトリックの危うさについて、河野誠哉『個性幻想――教育的価値の歴史社会学』(筑摩選書、筑摩書房)より一部を抜粋・編集してお送りする。
近年強まる
「発達障害は個性」論
ここで考えていきたいのは、発達障害をめぐる語りの中で、「個性」の語に言及される傾向が近年ますます強まっているように見えることである。
この趨勢に関する客観的なエビデンスを示すことは難しいが、たとえば表6-1(編集部注/『朝日新聞』と『読売新聞』の2紙に掲載された投書記事の中から、障害個性言説に言及したすべての事例を抽出し、その全体を整理したもの)からも、2000年代以降になってから、学習障害やADHD、アスペルガー症候群などの学習障害関連の事例が増加していった経過は読み取れるだろう。

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それらは、障害個性言説のバリエーションの一部には違いないのだが、しかし、従来のそれと比べると、いくぶん特異な方向への展開が認められることに、ここでは注目しておきたい。
「発達障害も個性のひとつとして考えたい」などという従来のタイプの言説もあるにはあるのだが、それとはややニュアンスの異なる「個性の延長線上にあるのが発達障害」というイメージがしばしば語られがちなのである。
専門家による一般向けの解説書の中から例を挙げると、たとえば次のような類である。
(編集部注/抜粋元の著書では他にも複数の例示がありますが、本記事では略しています)
このような発達障害イメージは、我々の人間観に対していかなる意味作用をもたらしているだろうか。その論理的な帰結はきわめて明白であるだろう。すなわち、発達障害が個性と連続的であるからには、形式的には誰もがすでにその素因を有していることになるわけである。