
乙武洋匡氏が「障害は個性です」と述べた――。そんなイメージを持つ人が多いだろうが、乙武氏自身はその言葉を「言っていない」と否定している。そもそも、障害者にまつわるトピックとして話題になることの多い「障害個性言説」はこれまでどう遷移してきたのか。河野誠哉『個性幻想――教育的価値の歴史社会学』(筑摩選書、筑摩書房)より一部を抜粋・編集してお送りする。
乙武洋匡氏の
『五体不満足』と個性
『五体不満足』から約10年を経た時点で、著者の乙武洋匡氏は自らのオフィシャルサイトに次のような書き込みを行っている。

みなさんも、どこかで見聞きしたことのある文言かもしれません。
でも、じつは、僕は一度もこのセリフを口にしたことがないんです。
個性とは、「その人らしさを形成する上で、必要不可欠な要素」。
だから、本来の意味で言えば、障害も個性なのかもしれません。
でも、やはり日本で「個性」という言葉が使われるとき、そのほとんどが肯定的な意味であることが多いように思うんです。
それでも、「障害=個性」と言えるのか?
ならば、障害という個性があこがれられたりもするのか?
たぶん、答えはNOだと思います。
だから、僕自身は「障害=個性」と言いきってしまうことに、少なからず抵抗を感じてしまうのです。
(編集部にて以下、略)
(乙武洋匡「「障害」=「個性」?」「OTO ZONE 乙武洋匡オフィシャルサイト」https://ototake.com 2010年9月26日付)
当人の言う通り、たしかに前出の引用箇所では、「障害は個性である」という言葉を「よく耳にする」と述べていたのであって、自らがストレートにそれを主張していたわけではなかった。
ただし、同書内の別の箇所では、自分の身体について「超個性的な姿で誕生し、周囲を驚かせた」(2頁)とか、「生まれてきた時から個性的だった」(11頁)とも語っていたので、それがまったくの誤読とも言い切れないようにも思われるのだが、ともあれオフィシャルサイトのこの文面からは、自らが障害個性言説を拡散させた中心人物であるかのように世間から扱われてしまうことに対する当惑や苛立ちのようなものが垣間見える。
つまり、それほどまでに「障害は個性」という言葉は、多くの人々の心中をざわつかせる存在だったわけである。
障害個性言説が
トピックとなった契機
障害個性言説が論争的なトピックとして話題となった最初の出来事といえば、平成7年版の『障害者白書』(総理府編1995)が「バリアフリー社会をめざして」というサブタイトルを掲げて、この考え方を大きく取り上げた時のことである。