同白書は、バリアフリーを実現するために克服されるべき4つの障壁(物理的な障壁/制度的な障壁/文化・情報面の障壁/意識上の障壁)を示したうえで、その中でも意識上の障壁を乗り越えるための有効な視点として、この「障害は個性」という障害者観を提示したのだった。

「共生」の考えを更に一歩進めたのが、障害者自身や障害者に理解の深い人達の間で広まってきている「障害は個性」という障害者観である。我々の中には、気の強い人もいれば弱い人もいる、記憶力のいい人もいれば忘れっぽい人もいる、歌の上手な人もいれば下手な人もいる。これはそれぞれの人の個性、持ち味であって、それで世の中を2つに分けたりはしない。同じように障害も各人が持っている個性の1つととらえると、障害のある人とない人といった1つの尺度で世の中を二分する必要はなくなる。(総理府編1995、12頁)

 これは障害者を特別視するのではなく、一般社会の中で普通の生活を送れるような条件を整えていくべきだとする、障害学で主唱されているところの「ノーマライゼーション」の理念に即した提案であった。社会生活の様々な場面において、障害者が身近に存在していることが当たり前の風景として感受されるような状況を言い表すために、ここにあえて「個性」というレトリックが動員されたのである。

 若者文化の文脈では、むしろ「ノーマル(普通)」とは対極的な位置を占めていたはずの「個性」の語が、ここではそれとはまるで正反対の意味合いで使われていることに注目しておきたい。

 ここにはノーマルからの差別化ではなく、そこへの組み込みが志向されているのである。つまりこれは、決して従来型の「差異化のレトリック」ではない。「個性」の語を使った話法としては新しい類型とみるべき「包摂のレトリック」だと言える。

新聞投書から見える
障害個性言説をめぐる状況

 そうした状況についてより詳しく検証すべく、ここでは新聞記事データベースの力を借りることにしたい。『朝日新聞』と『読売新聞』の2紙に掲載された投書記事の中から、障害個性言説に言及したすべての事例を抽出し、その全体を整理したものが表6-1である。

 ここで記事全般ではなく、あえて投書記事に限定したのは、作業量との兼ね合いもさることながら、1件ずつの記事を事例の単位として扱いやすいというメリットを勘案してのことでもある。