芸術を「鑑賞」するだけでは
「表現欲求」が満たされない
それでも、プロが手がけた芸術作品を鑑賞すれば、何か豊かなものを得た気分にはなれます。こんなふうに歌えたらいいなあ、あのように見事に描けたら嬉しかろうなあと思いつつ作品や演奏を鑑賞する……つまり、一般人にとってプロのアーティストは、自分の代わりに表現欲求を満たしてくれる存在というわけです。
そうやって芸術を純粋に鑑賞して満足していることも、むろん正しい意味での趣味にほかなりません。優れた芸術作品に触れる時間には満足感や心の高揚がありますから、私自身も、そのような立場で、芸術鑑賞を楽しむ1人です。
しかし、やはり芸術を受け身的に「鑑賞」しているだけでは、どうしても満たされない「表現欲求」というものがあります。人は誰もが自分自身をなんらかの形で表現したいという欲求を持っていて、それは主体的・能動的に表現しないことには、十全には満たされないのです。
ですから、芸術をただ鑑賞するだけでなく、自らやってみてほしいのです。
「芸術は自分でやるものだ」と言うと、「自ら表現するなんて滅相もない。私は芸術をただ楽しく鑑賞できれば十分です」とかぶりを振る人がいるかもしれません。
そもそも、芸術が誕生した太古の昔には、芸術を専業とするプロがいたとは思えません。いわゆるperforming artsにしても、最初は、感情を表現する手段や、宗教的な儀式として、歌や舞踊などの表現行為が自然発生的に生まれたはずです。
その表現行為は特殊な専門技術を持つ人にだけ許されていたものではなく、普通に暮らす人たちが担っていたと考えるのが自然です。今、お祭りのときに町の若い者や旦那衆が神楽や獅子舞なんかを舞ったりするのと同じようなものです。
最初は宗教や祈りなどと結びついていた表現行為が、時代とともに切り離されて、その技術を専門的に追求する人が現われ、生業とするようになった。これがアートの起源であり、一般人とアーティトの間に壁が生じる端緒ともなったことでしょう。
今は専門性が極度に進んだことの結果として、「芸術は鑑賞するもの」と受け身的に思っている人が一般的かもしれませんが、本当にそればかりでよいのでしょうか。
芸術家たちが仲間うちだけで芸術を論じるようになれば、一般大衆と芸術家の乖離が進む一方です。