1987年春にブライアン・メイ(クイーン)の作品2曲を発売した本田美奈子さんは88年1月、女性ロック・バンド、Minako With Wild Catsを結成し、春からツアーに出ている。結果的に89年秋に活動を停止し、2枚のアルバムを残して2年足らずで事実上解散したが、ロックの激しい歌唱法(シャウト)はこの時期に完成している。

連載前回(第25回)の最後に、「90年にはソロにもどり、軽快なポップスのシングルを2枚発売しているが、スタイルの急激な変化にリスナーは付いていけず、売り上げはアイドル時期(85-87年)に比べて大幅に落ちた」、と書いた。この事実関係には1つ誤りがあった。

 ソロに復帰してシングル「7th Bird 愛に恋」(東芝EMI)を発売したのは90年ではなく89年10月11日で、事実上Wild Catsが解散したのはこの時期である。

 次のソロ・シングル「SGANGRI-LA」(東芝EMI)の発売は90年7月4日と9ヵ月後で、この間、制作中だったソロ・アルバムは途中で棚上げされている。試行錯誤していたさなか、11月の「ミス・サイゴン」オーディション応募にいたったわけだ連載第1回参照)

クイーンから受けた大いなる刺激

アルバム「CANCEL」(1986)のジャケット。以下、すべて東芝EMI

 英国のロックバンド、クイーンと交流し、ブライアン・メイの作品提供を受けてロンドンへ渡ったのは3回、86年から87年にかけてである。

 86年6月5日から7月2日のロンドン滞在は、アルバム「CANCEL」の録音が主たる目的で、ブライアン・メイとの打ち合わせも行われている。

 途中、6月21日にクイーンのドイツ・マンハイム公演に招待され、10万人規模のスタジアム・ライブを実際に間近で見ている。とくにフレディ・マーキュリーの全身全霊をかけた壮絶な歌唱には大いに刺激されたことだろう。クイーンのライブはこのツアー・シリーズ(マジック・ツアー)が最後だったから貴重な体験だった。

 この日、ロンドンからフランクフルト国際空港に着くと、すぐにクイーンのオフィスが差し回したクルマでホテルへ行き、スイートルームでブライアン・メイとの打ち合わせに臨む。同時にビデオ撮影も行なわれたそうだ。このビデオがどういうものか、よくわからない。当時の新聞や雑誌には「クイーンのプロモーション用」と書かれているが、見たことはない。

 後年、本田美奈子さんはこう振り返っている。

 「クイーンのコンサートでフレディの歌を生で聴いたときも、もう第一声から鳥肌が立ちましたから。/ クイーンのライブの魅力は、自分が今持っている力をすべて出しきるっていうところにあると思います。私が観たフランクフルトでのコンサート(★注①)も、演奏してみんなでひとつになって、すべての力を出しきって、このまま死んでもいいっていうくらいの勢いとエネルギーを感じるステージでした」(本田美奈子「文藝別冊 クイーン伝説のチャンピオン」増補新版、河出書房新社、2011年8月30日、インタビューは2003年8月5日)

★注①「フランクフルト」ではなく、「マンハイム」である。フランクフルト国際空港から近い。