さまざまな特徴をもった人たちが一緒に暮らす社会の中では、何か問題が起こったときは、解決策について1人ひとりが意見を求められます。

 人々は、「自分はこういうことが原因だと考えている。だから解決のためにはこうすべきだ」と、明快に、そして論理的に意見を述べなければなりません。そうでないと「あいつは何を考えているかわからない」と見なされ、立派な社会の構成員として認められないからです。

 彼らは2000年以上も前から、言葉を使って相手と交渉する経験を積んできました。それらは修辞学とか言語学、雄弁術などの学問として確立され、長い時間をかけて磨かれ、レベルアップしてきました。

 一例として、古代ギリシャの代表的な哲学者のソクラテスは、相手と「対話」をすることで思索を深めていきました。

 言葉を使って伝えることが必須の社会で育ってきた人であれば、仮にアナウンスの経験がなくとも「このことについて取材し、レポートせよ」と命じられたら、誰もがマイクをもって堂々と自分の見解や意見を述べることができるでしょう。

 ところが日本で同じことをすると、「あいつは自分の意見をとうとうと述べる、やっかいな人物だ」「あんなに自分の主張を述べるなんて、あいつは嫌なやつだ」と、まるきり逆の評価をされてしまうこともあります。

 それほど日本社会は、自分の意見を話し言葉で表明するという経験をしてこなかったのです。

 話をするのがうまくないのは、個人的な能力うんぬんという以前に、日本社会全体がもつ特徴であると言えます。

 このことを頭の隅に置いておくと、人前で話すことに対する苦手意識が少しやわらぐのではないでしょうか。

歌手・五木ひろしから学んだ
理想のコミュニケーション

 私が「こうあったらいいな」と思う、理想のコミュニケーションとは、その場に関わる人1人ひとりの思いを想像し、全員がひとつにまとまれるような場を作るよう、心をくだくことです。

 それを体現されている方として、歌手の五木ひろしさんがいらっしゃいます。